活動史

名古屋エスペラントセンター活動史[1973年]

エスペラントの部屋、誕生

センターの前身「エスペラントの部屋」が1973年3月4日に名古屋に誕生した。「名古屋エスペラントセンター」と名称が変るのはその翌年である。

エスペラントの部屋に集う 1973年の2月、当時の名古屋のエスペラント運動のあり方に物足りなさを感じていた20代、30代のエスペランティストが集まり、自分達の活動の足場として、恒常的な集会場を持ちたいと考えた。大森静、高木美智子、竹崎睦子、永瀬義勝、影山実、林和治の6名である。名古屋市東区東門前町2丁目30番地(当時の住居表示)、東新ビル206号室(部屋の大きさは2.25坪(4畳半))を借りることに決め、"Ĉambro de Esperanto"「エスペラントの部屋」設立のお知らせと支持のおねがいをB-4 の大きさのチラシで東海エスペラント連盟(TEL)の会員を中心に配布した。

設立寄付金が21名から195,000 円集まり、予定額 (部屋保証金150,000 円)を越え、3月4日の"Ĉambro de Esperanto"の発足式(第1回維持員総会)を無事に迎えることができた。

部屋の借用代表者は竹崎と高木であった。運営委員として、会計に竹崎、室報担当(月1回発行予定) に高木、林、図書販売担当(早稲田裕氏から預かった本を中心に扱い別会計で行う。)に影山を選出、運営方針を決めた。当時の維持費は1人月1,000円であった。

この年の Ĉambroとしての主な活動の一つに合宿がある。「エスペラントの部屋」合宿実行委員会(高木、永瀬、鈴木淳等)が中心となり、9月14日〜16日に第1回合宿が名古屋ユースホステルで開催された。「名古屋地区外から講師を招き、交流を行う(名古屋地区の閉鎖性打破のため!)」という方針にのっとり、関西(佐野寛氏)と関東(麹地知子さん)より講師を招いて行われた。

合宿のようす

室報の発行

またĈambroが重要視していた広報活動として、室報「エスペラントの部屋」がN-ro5まで発行された。

この年の室報編集委員長は高木美智子であり、実務を杜みのり(林)が行なっていた。ページ数は毎回8〜10ページであった。この室報「エスペラントの部屋」の内容を見ると、時代の雰囲気やĈambroの様子がわかるので、主な記事のタイトルをあげてみよう。

1973年のできごと

3月に発足したĈambroであったが、10月14日の運営委員会で部屋の移動が検討され、206号室から214号室 (約8 畳)に決定される。この部屋の移動についての話し合いが不十分であったため、一部の維持員から不満が出た。

この年の主な出来事として次のことがあった。

第22回東海エスペラント大会 5月20日に第22回東海エスペラント大会が岐阜市長良公民館で、東海エスペラント連盟と東海学生エスペランチストロンド連合共催で開かれた。67名の参加があった。このエスペラント大会にはĈambroとして図書の展示販売を行なった他は特に関与することはなく、当時50名以上の会員を擁していた学生のエスペラントサークルの団体がこの地方の運動に大きく関わっていた。
10月から朝日文化センターで秋の特別講座「エスペラント入門」が開かれ、12月27日に終了。講師は竹崎睦子女史。
11月11日、中区栄で「由比忠之進氏追悼集会」が、もりみのりを中心とした実行委員会により開催され、ビラの配布などを行った。また、同日、富士見台公民館においても、TEL及びNES主催による「偲ぶ会」が行われた。これは67年11月1日の焼身自殺から7周忌にあたるために企画されたものである。

12月9日に瑞穂区役所で開かれたザメンホフ祭には72名の参加があった。この集まりの主催も東海エスペラント連盟と東海学生エスペランチストロンド連合であった。主なプログラムはWilliam Harman の prelego "Pri esperanto−movado en Usono kaj Japanio"や学生たちによるエスペラント劇であった。

この年に名古屋を訪れた外国人としては、7月22日、早稲田裕氏を訪ねてきたフランスのアルジェ在住のSalmon夫妻(26日、柳橋ニュークラブで歓迎会開催、7月29日から8月1日にかけて、揖斐峡で行われた学生ロンド連合の合宿に参加)や中国の葉籟士、陳原、祝明義(8月15日、柳橋ニュークラブで歓迎会を開催)がいる。

(1973年 終わり)


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