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1年ほど活動した4畳半の206号室から、74年には13畳程の214号室に移転し、活動の幅を広げることができるようになった。この移転に伴う運動方針の話し合いの中から、センターの構想が練られてきたのである。維持員数は一年の間に当初の約5倍、37名に増えていた。
3月10日 La 2-a Ĝenerala kunveno de La Ĉambro de Esperanto(CE)が熱田青年の家で開かれ、この総会で「エスぺラントの部屋」から「NAGOJA ESPERANTO-CENTRO(NEC)」へ改称が決定し、第1回センター総会となった。
この第1回センター総会で話し合われた活動方針等が、現在に至るセンターの骨格を成しているように思われるので、少し詳しく紹介したいと思う。
(注1) この頃、センターは東海大会、Z祭等の準備には直接関わってはいなかった。ロンドやSocietoではなく、「エスペラントの深化発展のために有形無形のサービスを以て貢献することを目的」とし、総合的・普遍的エスペラント文化のセンター建設のためにのみ活動しようとしていた。
(注2) CE時代及びNECの初期にはエスペラントの外国出版物は全て早稲田裕氏を通じて購入していた。当時名古屋地区では早稲田裕氏が、昭和区川名山にある氏の自宅兼事務所の2階でエスペラントの外国出版物の販売を手がけており、当地区では唯一の外国出版物の購入窓口であった。CENEC)はその在庫を惜り受け、販売を始めた。そのため当時は、早稲田裕氏を通じて仕入れた本と、CEとして仕人れた(国内の本)と別会計で処理を行なっでいた。ちなみに、1973年度、氏より653,810円分の本を借り、販売を始め、同年早稲田裕氏分268,120 円、CE独自で仕入れた本139,380円の売上があった。1977年には外国出販物も全て直接注文の体制が確立した。しかし、それは氏より借り受けていた本をすべて引き取らねばならず、氏を通じての購入が難しくなったことなどの結果でもあった。
(注3) RICUKO サンの字がわからなかったのでエスペラント式のまま書いた。今後も人称等正しい漢字表記がわからないときはこのようになると思われるが、知っている人は教えて下さい。訂正します。
5月15日に機関誌「VERDA RIVERO N-RO6」が発行された。内容は
機関誌のタイトルが 「エスペラントのへや」 から「VERDA RIVERO」に変った。VERDA RIVERO の名付親は当時機関誌の編集をしていた林和治 (ベンネーム:杜実紀)で、緑川英子(長谷川テル、VERDA MAJO)とRIBELOをかけて「ベルダ・リベーロ」としたものである。
続いて、5月31日、「CENTRO通信N-ROI」が発行された。これは、ĈAMBROからCENTROに変ったのを機に毎月1回、維持員及び協力者に対して委員会で話し合われた内容を知らせることになり、CENTRO通信を発行することになったものである。当初は「CENTRO通信」の名でハガキ1枚にガリ刷りであったが、1980年2月9日のN-R057から「センター通信」に名称が変わり、同年12月のN-RO62からB5判にタイブ印刷をし、封書で送付するようになった。
5月19日、第23回東海エスペラント大会が郵便貯金会館で開かれた。参加者61名。司会は林和治、東海連盟新会長水野輝義氏の挨拶で始まった。主なプログラムは片岡好亀氏の講演「Kial mi lernas kaj instruas Esperanton?」、朗読「ロメオとジュリエット」(三浦伸夫、岡本暁子)、歌唱指導(松田弘)、竹中治助氏の訪中報告などであった。
9月14日〜16日。第2回センター合宿。影山実を準備委員長としたセンター合宿が、守山区の天母学院AMO-AKADEMIOで開かれた。参加者は約20名。参加費は3500円であった。準備委員長の提案で、合宿の最後でテストが実施されるという、なかなか厳しい合宿であった。また同会場で15日にTELの委員会が開かれ、ザメンホフ祭の開催について話合いがなされた。
9月27日、13:00 〜16:00に JEIの秋の研究発表会が名古屋柳橋の朝日文化センター(ガーデンビル6F)で行われた。29名参加。
12月15日、瑞穂区役所講堂で99名の参加を得てにぎやかにザメンホフ祭が開かれた。TEL、NEC、ロンド連合の共催で、川越英世ら南山エス研による歌唱指導や、演劇 (NEC、NES、ノルダステーロ、ロンド連合)、フォークダンス(森茂代指導)等多彩な催しであった。センターからは月曜勉強会の有志(鈴木淳、横山善一、松岡良子)による「新婚さん」が演じられた。
この年名古屋を訪れた外国人としては、5月9日、フランスのLorenzin Petro 氏がセンターを訪問。外国人としてセンターを訪れた最初のE-istoであった。6月19日、S-ino Gaweron Yadwige (el Pollando) 。
9月2日にはF-ino Alica MICHIEWICZ (Polino)が来名し、夕方、栄のレストラン「タチソウ」で参加者19名、参加費700円でアリーチャの歓迎会が開かれた。ボーランド紹介のスライドもあり女史の巧みな会話に話がはずんだ。(写真はセンターにて。)
1974年当時、東海地方には愛大、南山大、名城大、名大、名工大、愛教大、名市大、名市短、金城大、中京大等にエスぺラントのクラブがあった。これらの大学は、連絡機関程度のゆるい組織「東海学生エスペランティストロンド連合」 を作り、名工大を中心に活動を行なっていた。このロンド連合は、もともとRH(ロンドハルモニーア)としてーつの組織であったものが、1972年の4月、全忠寺での新歓合宿の際に、「RHを脱退し、大学毎の独自性を発揮できるようなロンドの集合体にすること」を決定し出来たものである。その後、名大生を中心としたRH-anojはロンド連合での活動に加え、独自の会合を開き、RHの金国合宿に参加するなどの活動を行なっている。センター発足の前後から学生は協力者(維持費を拠出しないセンター構成員)としてセンターに協力し、又利用をしていた。例えば、74年の名大祭、名工大祭にはセンターの資料の中から「世界を旅して」「緑のきずな」「FIAT」「BEOGRADO」等のパンフ類を展示するなどセンターを大いに利用している。 (1974年終わり)