活動史

名古屋エスペラントセンター活動史[1975年]

センター黎明期(初期の活動)

当時のセンターは、委員及びその役割が余り固定化されておらず、活動できる人が主体的に活動しており、日常的に、活動家を募集していた。そのため、規約上、現在はなくなっているが「協力者」が正式に認められていた。(注1)この協力者の項は毎月の維持費が収められない学生を念頭に作られたと考えられ、学生の活動に期待していたと同時に、委員も年度の途中で、どんどん替わるなど、委員及び委員長の概念もあいまいであり、いわゆる動くことができる人がセンターに集まり活動すればよいとの状況であった。仕事の分担も当然のようにどんどん変わった。(規約上は委員は総会で承認されることとなっているが、有名無実であった。)

例えば、1975年度中に会計が2度、センター通信担当、総務、機関誌担当が替わるなど、1年のうちに3分の2の委員が替わっている。初代委員長の影山実は仕事の都合でセンターにあまり来られなくなり、ガリきりが得意で編集を担当していた、センター規約の草案者の杜みのり(林和治)が就職のため、3月には名古屋を離れるなど、委員の異動がめだった。このような状況は、センター発足当時から1977年ころまで続いており、委員の固定は困難な状況であった。

ちなみに、1975年8月時の委員は総務(竹崎睦子、鈴木善彦)、図書(鈴木淳)、資料(三浦伸夫、小野真理子)、会計(山川明美)、機関誌(横山善一)、雑事(玉岡次郎(三宅))である。

この年の4月19日、ne-esperantisto向けの宣伝誌「エスペラントの世界」(発行人:津久井英喜、発行所:東京エスペラント通信社)第1号が発行された。センターでは津久井氏の呼びかけに応え、カンパを集め、市内の各図書館、青年の家などに「Eの世界」を配布する運動を行った。

センターの利用状況としては、75年の初めの月(初級勉強会)、金(中級勉強会)、日曜日(当番制)の週3回の使用から、順じ利用回数が増え、火曜日にはNESの講習会が、木曜には伊藤太郎を中心とした中級の勉強会が始まり、10月にはセンターは毎日利用されていた。(あいている水曜日にはVERDA RIVEROの編集。土曜日はザメンホフ祭の劇の練習日となった。)

センターの事業としては、資料収集部門が司書の小野さんの加入により、軌道に乗り出してきた。購入雑誌の製本、蔵書目録の作成(NECとNESの蔵書計373冊)が行われた。図書販売は毎週日曜日の販売の他、日本大会、RHの大会でも出張販売を行ったが、外国の出版物はまだ早稲田氏に依存していた。

(注1)V(構成)「センター」はその目的を支持し、毎月一定の額の維持費を拠出する維持員、及び維持費は拠出せず直接活動に参加する協力者により構成される。

日本大会招致の決定と準備

1975年の1月26日、TEL(東海連盟)委員会及び第11回センター委員会が開かれ、東海大会及び日本大会の件について話しあわれた。東海大会については5月25日にYWCAで開催することに決定、また76年の日本大会を名古屋で行ないたい(丹羽正久)との提案には、「当分は力量不足のためできない=やらない」との意見が多数であった。参加者は丹羽正久、吉良勝子、武内実則、水野輝義、三浦伸夫、林和治、他に、当日同席していた者は、横山善一、伊藤昌明、三宅輝聡、鈴木淳、川合。

その後も、丹羽さんから、ぜひ日本大会を招致したい、若い人たちが賛成してくれるなら行いたいとの働きかけがたびたびあった。センター内部でも意見は分かれており、ベテランの人たちは慎重であり、学生達は開催に前向きであった。

5月25日の東海大会を前にした、5月18日の第15回センター委員会で、激論の末、午後9時12分、日本大会の招致を決定した。三浦伸夫(同年3月大学卒業)、三宅輝聡(大学3年生)の2人が最も積極的であった。25日の第24回東海エスペラント大会で来年の日本大会を名古屋に招致することが採択された。その後、丹羽さんを準備委員長に、学生及び20代の若者達が中心となり、企画委員会を引っ張っていくことになったのである。

7月13日、第1回企画(日本大会)委員会が大会の開催予定地の愛知県労働者研修センターで開かれた。

日本大会でのセンターの出張図書販売コーナー8月10日、金沢で開催された第62回日本大会にて、南山大3年生の安子島佐衣子が来年の日本大会を名古屋へ招致する挨拶を行う。(写真は日本大会でのセンターの出張図書販売コーナーと名古屋の学生達。)

8月29日、TELのメンバー及び学生17名参加のもと、第2回企画(日本大会)委員会が、富士見台公民館にて行われ、スローガン "por pli da movado !"を決定、 大会大学講師として阿部政雄氏の名前があがった。

9月15日にセンター委員会(第20回)及び第3回企画(日本大会)委員会が開催され、参加費(5/20 までは2,500円、5/21以降は4,000円)、及びおおよそのプログラムについて話し合われた。その後、毎月1回、センター委員会の開催日に合わせ、センターで日本大会の企画委員会が開かれることになった。

10月にはメイン講演の講師として安部政雄氏が決定(演題「アラブと日本」)。

11月には日本大会の記念出版はKANTAROに決まり、磯部晶策さんに編集を依頼。12月には、1月下旬から、磯部晶策さんを中心に具体的編纂を行うことに決定した。

(以下、1976年に続く。)

1975年の主なできごと

5月25日(日) 第24回東海エスペラント大会が、YWCAにて、東海エスペラント連盟(TEL)主催で開催された。ロンド連合(学生)、NEC、RHの共催であった。参加者は77名。司会は三浦伸夫。メイン講演は藤本達生氏。

活動報告として各大学E研、RH、NEC、L'OMNIBUSO、地方会(岐阜、名古屋、岡崎、豊橋、若草、四日市)から報告が行われた。

分科会として次の5分科会が行われた。( )内は担当者。 komencanto(タナバン)、korespondo(武内)、legado(永瀬)、kurso(水野)、movado(鈴木淳)。また、南山大学E研による歌唱指導もあった。

上に述べたように、来年の日本大会を名古屋に招致することが採択された。

第3回センター合宿9月13〜15日、第3回センター合宿が行われた。場所は昨年に続き、守山区の天母学院である。参加者は30人。講師として、センター会員から、丹羽正久、林雪子、影山実、特別講師として磯部晶策、三石清氏を招き、初級から上級までの5クラスで行った。この合宿でのスローガンは"Ni parolu nur esperanton ĉiam dum kunloĝado."であり、なるべく、日本語を使わないようにしていた。

合宿準備委員は伊藤太郎、鈴木善彦、玉岡次郎、会計は服部愛子であった。

また、合宿の最終日にはセンター委員会及び、日本大会の企画委員会も行われた。

10月25-26日には、磯部晶策さん主催の信州合宿が行われ、8名が参加し、おのおのの専門分野の内容をエスペラントで発表するなど、内容の濃い集いとなった。

11月11日(火)、佐藤首相の訪米に抗議して焼身自殺した由比忠之進を偲んで由比祭がNESとNEC主催でセンターで行われ、16名の参加があった。

ザメンホフ祭12月14日(日)に第63回日本大会組織委主催のザメンホフ祭が東区役所講堂で行われた。記念講演は多田重則氏の「ソ連とエスペラント」。続いて、RH、南山大、センター(2)から4つの寸劇が披露された。また、歌唱指導や図書紹介などもあり、来年の日本大会を控えて、87名の参加者で大変盛り上がった会となった。


この年名古屋を訪れた主な外国人としては、
ヴォルチック氏1月15日、スペインからFranquesa夫妻が来名。午後2時から学生主催の歓迎会(喫茶店エーデルワイス)が、夕方6時からNES会員を中心に夕食会(レストランタチソウ)が行われた。歓迎会では、成人式に参加した岡本暁子の着物姿がフランケーサ夫妻を喜ばせた。

8月22日にはポーランドのヴォルチック氏が名古屋を訪れ、東京に発つまでの1週間の間に、センターの講習会に2度(25日、27日)出席し、チェメトードの実演を行った。
(写真はヴォルチック氏を囲んで:センターにて)
(1975年 終わり)

磯部晶策さんの言葉
VERDA RIVERO 7 から 10月25-26日の合宿での話
「日本のE界は、関東や関西を中心に、大山脈を形成しているけれど、名古屋だけはそれらの山脈とは連なっていない固有の山脈を形成している。関東から関西へは、名古屋をよけ、北陸を通ってその山脈はお互いに繋がっているのに、どういう訳か名古屋は……その名古屋山脈には、丹羽山あり、三石山あり……その中でもひときわ高いのが、早稲田山で、皆はこうした山を登ろうと努力しないといけない。」


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