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新年早々の2002年1月9日(水)午後、永瀬氏とともに、いとうかんじさんを京都の自宅にお訪ねした。お宅は、平安神宮の裏手、丸太町通りから少し北に入ったところで、京都大学や吉田山に近い閑静な住宅街の一角にある。
いとうさんは、私たちが訪問したときは、2階の書斎でワープロに向かって執筆中であった。のちほど伺ったところによれば、PVZの仕事も一段落したので『クオ・ワディス』など長編小説を次々に読んで、その感想を認めておられるとのことであった。
2001年のザメンホフ祭参加者有志からの贈り物として Cezaro を手渡したのち、永瀬氏は、PVZの話や今後の企画などについて尋ねた。
私は、おもに、いとうさんが三高、京大に在学されていたころのお話を伺った。いとうさんが、どのような同時代的な環境にあって自己形成されたのか、いわば、伊東幹治が「いとうかんじ」そして「 ludovikito 」になる前の時代について確かめたかったのである。ご本人は、ザメンホフの伝記的事実は子細にわたって追跡しておられるが、ご自身のそれを語ることには禁欲的であり、とりわけ「前史」時代については、ほとんど言及がない。そこで、本稿ではこの点を中心に、各種資料と、いとうさんのお話とを総合して、いとうさんの青春時代を簡単にスケッチしてみたい。
いとうさんは、1918年1月15日生まれで、1930年に神戸一中に入学し、1934年に旧制三高(文甲)入学、1938年に京大国文科に入学し、1941年に卒業、1942年に召集され、1945年に上海で捕虜になった。
『三人』という同人誌がある。これは、1933年10月から1942年6月にかけて京都で発行された。10年間で28冊発行されたとのことである。創刊同人は、竹内勝太郎、富士正晴、桑原(のち竹之内)静雄の3人である。同誌の発行時期は、センターが1982年に復刻した全文エスペラントの雑誌 tempo (1934〜1940)のそれとも大部分重なっており、1930年代に京都の若い学生・知識人が作っていたグループのひとつである(『三人』は、戦後の1947年に、『VIKING』に発展し、やがて同誌に、いとうさんの長大な「ザメンホフ」が掲載されることになるのであるが、それは戦後もだいぶ後になってからの話である)。
いとうさんは、瓜生忠夫(大阪北野中学、三高、東大独文)に連れられて、1937年6月、第14号から、この『三人』に参加した。ただ、1935年に亡くなった竹内勝太郎とも面識があったように伺ったので、それ以前から同人との関わりはあったのかもしれない。
いとうさんの会話には、富士正晴、竹之内静雄などはもとより、河野健二、野間宏、落合太郎などの名前も登場した。織田作之助が三高で3級下にいたとも伺った。ただ、いとうさんのお仕事を高く評価している鶴見俊輔、松田道雄とは面識はないとのことであった。京大は、富士正晴に岩野泡鳴に関する卒論を書いてもらって卒業したと伺ったが、このことは、『ザメンホフ』第7巻にも書かれている。あと、富士正晴の妹を妻にもらう話もあったが、彼女は結局、野間宏に嫁したとのことである。
書斎の書架には、55巻に及ぶPVZが並んでいる。それらの背表紙を眺めながら、いとうさんは、有名になっていたら、こんな仕事はできなかった、有名にならなくてよかったと述懐された。もっとも、こちらがあまり読んでいないことがわかって、「本にしても安心できんなあ、読まれてないんやなあ」と嘆かれ、忸怩たるものがあった。
ときおり小雪がちらつく、風の強い底冷えのする日であった。静かな書斎で、小1時間ほどお話を伺ったのち、いとう家を辞した。 このときのやり取りはテープに録音したので、幸いにしてご承諾が得られれば、テープを起こして、センター通信に掲載したい。
(センター通信 n-ro 230, 2002年2月18日)