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2005年の夏、10日あまりをエストニアのエスペランティストの家で妻といっしょにお世話になりました。それまではその国の首都の名前さえ知らなかったし、歴史やや文化についても知識は皆無でした。その前年のペキン世界エスペラント大会の晩餐会で同席したエストニアの女性リディアさんとすこしだけことばをかわしました。ペキンの次のヴィリニュスUKには参加するかとかいう話題は当然出ました。
その後、この人からe-メールが届くようになり、この新しい文通に妻のシマ子も加わるようになりました。シマ子は北欧のエストニアのことも知らないしこのリディアさんには会っていません。ヴィリニュスUKには参加することは決めてあったのですがまさかその大会の前に初めての人の家に10日以上も滞在するなんてことは考えてもいなかったことです。e-メール文通のなかで私たちの何が気に入ったのか分かりませんが彼女は、自分の国にいらっしゃい、子どもたちも巣立って二階の部屋が空いているからそこに泊まれば良いと言ってくるのです。家族として招待するから、エストニアからリトアニアのUK会場までいっしょに乗って行く夜行バスの費用以外は心配しないでいい、と書いてきました。
九州ほどの広さの北国で10日間もどうやって過ごすのだろうと考えましたが、ともかく滞在中の希望は知らせておきました。贅沢なホテルに泊まったり、名所旧跡を回ったりおいしいものを食べたいというのではなくその小さな町で日常に町の人が行っているスーパーマーケットを見たり、家の近くを散歩したり、家族とゆっくり話したいと伝えました。それに加えて出来るなら、町で音楽のコンサートがあるなら切符を用意してほしい、外国でピアノの調律をしてみたいから調律の必要な家を見つけておいてほしい、日曜日は是非町の教会で礼拝に出席したいことなどを伝えておきました。
話が決まると町の観光地図やどこで見つけたのか日本語で書いたエストニアの観光書やエスペラントで書いたエストニアの歴史の本やエストニア語のカレンダーなどを送って来てくれました。私はその辺りからエストニア語というのがあることが分かり始めました。しかし,私は旅立つまで忙しさにかまけてそれらの本や「地球を歩く」をじっくり調べたり読んだりせずに準備はシマ子に任せたままでした。
ショッピングセンターでCDを買ったり、めがねを修理してもらったり、ハアプサルというこの町の記念コンサートを楽しみ、リディアさんの孫が通っている中学校でエストニアというグランドピアノを調律したあと校内を案内してもらい、町にある古い石造りの教会で礼拝に出ることもできました。
あの白夜の9時過ぎに庭のカマドの前で食卓に着いたことです。庭の青草に置いてあるテーブルにまずはテーブルクロスをかけて私たちを歓迎してくれました。手作りのテーブルもクロスをかければ宴会場です。アルコール度も低いエストニアの缶ビールが用意されており、乾杯しました。
エストニアという国はバルト三国の一つ。ポーランドの北東にあります。フィンランドのヘルシンキから海をプロペラ機で30分南に首都のタリンに降りました。小さな空港では花束で迎えられ、息子さんの大きな車で100キロメートルほどをほとんど森の中を走ってハープサルの家に着きました。車中この国の産業を聞くと、窓の両側に今見える森からの材木であり、最大の輸出国は日本だと聞きました。
医療器具の販売を経営している息子さんは庭でお父さんと親しく話しており、間もなくタリンへ戻って行きました。私たちのために送り迎えをしてくれたのです。翌日の夜9時ごろでした。まだ明るい白夜の外庭で夕食が準備されました。娘夫妻も近くからやって来て歓迎してくれます。暖炉のような石を積んだカマドには煙突があります。物を焼いて食べるわけです。焼くまえにその家の主人ボリスが肉を切ります。
E-メールで事前に話を聞いたり写真を見てありましたが、彼は太ったユダヤ人、白い髪やひげが目立つ目の優しい人です。ボリスはリトアニア生まれのユダヤ人で私たちより何歳か上、結婚するときには親に反対されたそうです。足が不自由でほとんど外出をしない、家でTVを見ており、夜中は日本からの相撲放送も見ると言っていました。バルトという名前の力士はこの近くに住んでいたんだとか話していました。奥さんに言わせるとボリスは頭が良く人望があり、ときどき電話で知り合いの相談事に大声でやっているとのことです。
暖炉の前で彼と二人だけになったとき、彼は座って肉をナイフで切る、何の肉か。彼はエストニア語、ロシア語、イディッシュ語、ヘブル語はできるが、エスペラントも英語も話さないというので、手振りで鳥か、と問うと、鼻を
押さえてブー、ブーという返事。よく見ると豚肉だ。ユダ人が豚を食べるのか? この人は規律(律法)を守る堅苦しいユダヤ人ではないことが分かりました。その夜は薪を割って燃やした火で魚の肉なども焼いて食べました。
ある日の食後私は彼に、ディアスポラのユダ人が話すイディッシュ語かヘブライ語で詩編の23編を朗読してもらえませんか、私が録画するからと提案すると、通訳を介して言うには、「私は目が弱くなっているから読むことができない」という返事でした。でも奥さんと二人でなにやら言い合っているうちに、ボリスさんは、「自分の部屋からあれを持って来てほしい」というらしい。奥さんが持ってきた物はあの小さな帽子、ユダヤ人が祈りの時に使うキッパという帽子。かぶる前に奥さんが櫛できれいに主人の髪を整え服のボタンをきちんとかけてあげます。威儀を正して手を閉じて始めました。撮影が終わったあと「それは何でしたか」と聞いてみると、「これは昔からユダヤ人に伝わる食事の前の祈りだ」という。彼はもちろんキリスト教の教会には行かないが、首都のタリンまで行けば、ユダヤ人の教会すなわちシナゴーグがあるがそれにもこのお父さんは行かないのだと奥さんは不満げに言います。アメリカには叔母が、イスラエルには弟がいるそうで時々電話で話すのだそうです。
リディア・リンドラさんは私のホームページをよく見ており、私が聖書を集めていることを知っていました。私は記念にエストニア語の聖書を買って帰りたいと言ってありましたが、帰りがけにボリスさんは自分のエストニア語の新約聖書を渡してくれました。ユダヤ人からせっかくの新約聖書を取り上げてしまい心が引けましたがトランクに大事に詰めて帰ってきました。この人とは最初から「ボリス!」と呼んでいました。日本人はとても若く見えると言います。シマ子のことだと思っていると私のことも彼から見るとその奥さんと同じ年だとは思えないようです。
ここで聖書について書いておきます。私たちにあてがわれた二階の3室の寝室の本棚には聖書が並べてありました。私が読むのに必要だろうとエスペラント訳も立ててあり一つはいつも私も家で使っているのと同じもの、もう一つは新約の初期のエスペラント訳で貴重本です。エストニア語の大判聖書が立派な箱に入って立っています。手頃な判もあり、それは比較的新しく家族の歴史記入欄には結婚記念日や子どもや孫たちの誕生日が記されています。そんなに熱心に読んである形跡はありません。ほかの日に、そのことをリディアさんに話すと、娘さんも家族の記録を聖書の記録ページに書き込んでいるそうです。私に見せるために二階に並べておいたのだそうです。のりや紙で修理し直した古い聖書もあり、リンドラ家の前の代の人々を紹介されたような気がしました。ソビエト時代にも捨てたり手放したりせずに持ちこたえたのでしょう。
首都タリンへ行ったとき聖書専門店に行きたいというと、大きな近代建築の建物に行きました。張ってあるポスターなどからみて福音派の管理で本の販売だけではなく集会などもできるクリスチャンセンターという感じでした。雨の中せっかくでしたが夏休みで扉は開きませんでした。
離れに小屋があってシャワー室、その向こうに薪(たきぎ)が高く積んであります。冬になる前の奥さんの仕事だそうです。マイナス20度、30度の真冬をいかに暖をとって寒さから身を守るか生き延びるかという戦いです。
斧があったのでほんの少しですが薪割りを楽しみました。エストニアまで来て何で薪割りをするのかと思う人がいるかもしれませんが、この家では素直に仕事をしたいという気持ちになります。子供のころ薪割りをして風呂を炊いた私には懐かしく楽しい仕事でした。庭の枯れ木を集めたり部屋を掃除したり、ふだん家でもあまりしないことができました。
サウナでは、薪を何本か入れて火をつけておくとその上の石が暖まって小屋全体が長時間暖かいのです。日本で入る健康ランドの温泉施設にある立派な電気やガスのサウナではありません。薄暗い手作りの小屋の中の鉄のカマドです。7月末でしたがシャワーをするにもサウナが暖まっているとほっとするほどの気温です。
暑い名古屋から急に涼しい天候の国に来て、寒くて風邪を引きました。シマ子のセキがひどくて気の毒でした。リディアさんは知り合いのエスペラントを話す女医さんに電話をかけわざわざ薬を持って来てもらいました。薬を飲み、次の日には診療所へ行きました。町の診療所の女医さんにはリディアさんの通訳が必要でした。処方箋を書いてもらいアポテコ薬局へ行き薬とのど飴を買いました。処方箋のメモや薬局の領収書が後で海外旅行保険の請求に役立ちました。それからは、なるべく暖かい飲み物を飲み、サウナも上手に使い、布団も増やし、長袖を持ち歩くようにしました。
娘のドーラさんを紹介します。息子の中学生が2人います。ハープサルから200キロメートルくらい南にドーラさんの主人の実家がある。姑さんと自分の母リディアさんとは仲がいい、というよりかなり親しい関係です。だからこそ日本からの初めての私たちを連れて行くことができたのです。砂ぼこりを上げながらエストニアの森の中の道を車は走りました。エンジン不調の車でしたが途中観光地に寄りながら娘の夫の家に着きました。あたりいったいは実家の土地だという。森のなかにある小さな集落。犬が2頭いました。家も広いが質素な家です。農家の雰囲気。シャワーではお湯はちょろちょろとしかでないので体を拭くだけにしました。私たちは、弟息子の使っていた部屋でリディアさんはそのドアの廊下に置いてあるベッドで寝ます。カーテンがあったかどうかは覚えていません。姑さんは木材会社の事務をやっているという人。そこにエスペラントの辞書や教科書が置いてあるのを見ました。そのお母さんもなんとリディアさんの影響でエスペラントをかじったことがあるらしい。自分からはエスペラントを話さないが私たちの話は理解できて会話は弾みました。
二人の少年は夜カードの遊びを見せてくれ説明してくるのです。どんな遊びかは分からないのですが、日本から来たカードだといいます、ポケモンらしい。「ポケットモンスターか」というと、ああそうだという。数年前日本の少年たちが盛んに遊んでいたカード。ほこらしげに英語を使って説明する少年たちにふたりのおばあさんたちは目を細めています。
ハアプサルでは、日曜日の礼拝は、歩いて行ける距離に古い城がありそこにある大きな石の教会です。石造りのひんやりとした、天井の高い大きな会堂ですが、まだ飾も聖画もなく、目立つものは新しい据え置きのパイプオルガンが際立っていました。ソ連崩壊のあとヨーロッパからの寄付でドイツ製のオルガンが入ったのだそうです。日本やアメリカのように電子オルガンですますことは14世紀の会堂には似合わないわけです。
受付で賛美歌を借り、意味は分かりませんがローマ字綴りのエストニア語で歌いました。説教台がある、中心にはテーブルもある。昔はカトリックだったようだが、今はバプテスト派が管理してプロテスタントの礼拝が行われています。ですからマリア像はありません。聖餐式が重んじられた礼拝式でした。女性の一人が聖書朗読台に立って行き読みます、左端にある説教台で牧師の説教が短くなされます。聖餐式にかかる時間は長く、指示で互いに握手や挨拶をしてから前の祭壇に向かいひざまずいてパンとワインをいただきます。集会が全部終わると受付にいた女性が、私たちがエスペラントを話す人だと知ってシマ子にエスペラントで話しかけてきました。「私も以前はエスペラントを習ったが最近は単語も忘れてしまったが…」ときれいな発音で話してくれました。外に出ると昼近くの太陽に目がくらみました。
ハアプサルからタリンまで鉄道は敷かれていますが、いまは駅に機関車が置いてあり、駅舎は鉄道博物館になっています。その駅前からバスを利用して首都のタリンまでで観光に行きました。タリンは13世紀ころからの古い町で、立派な尖塔を持つ教会がたくさんあります。観光客として大きな教会のそばを通ると「オルガンコンサート」と書いてあるのを見つけました。ちょうど4時からのコンサートでした。入場券を買って静かに入っていくと、会衆席は祭壇を背にして座るようになって今います。座ると高いところに位置するパイプオルガンの演奏を見上げることができます。バッハのフーガその他3曲が演奏されました。パイプオルガンのすばらしさを語っていた兄や父を思い出しながら聴きました。バッハもすばらしい、後で聞いたのですがこの教会のオルガンはヨーロッパでも有名なのでそうです。いい音のオルガンでした。音楽を聴いて涙を流したのはひさしぶりのことです。感謝と喜びでいっぱいでした。
息子のイヴァルさんの車は旧市街から海岸線を走りました。途中、「歌う革命」とも言われるバルト三国の独立運動の場所、「歌の原」を遠くの木々の中に見つけました。30万人以上の人々が独立への思いをこめて合唱した所です。3国ともに、Kanto-Festo が見ものというか、国を挙げての催しらしい。再びこの国に来るならこの行事のあるときに合わせたいものです。必ずまた来なさいと言われた。
著作家のエスペランティストValev Kruusaluさんの家を車で尋ねた。イヴァルさんは、子どものころにはエスペラントの集まりに参加していたので、この先生とも久しぶりの再会だったようです。緑の庭や野菜畑が広がっている。夫妻で私たちを迎えてくれた。会話の最初は、日本人にとってエスペラントは難しいかという質問だった。本がたくさん並んだ書斎を見せてもらってからお茶になった。何冊かの本を持って来て、日本のエスペランティストへお土産ですと言ってエストニアの歴史のエス訳を上下巻をくれました。あとでよく読むと翻訳したのはこの人であり、エスペラントで書き下ろしの章もありました。リディアさんがくれたエスペラント-エストニア語辞書の編者の一人にもなっています。PIVに比べると3/4くらいの厚さの辞書だが見劣りしない体裁の辞書です。名古屋市の人口より少ない人口の国のわずかなエスペランティストがよくぞこれだけの辞書を出したものです。
(センター通信 n-ro 246, 2006年3月9日)