通信より

サマルカンドとウズベク語聖書

山田義

3年前に日本の各地を講演して回った、ウズベキスタンのエスペランティストのイオネソフさんはそのとき我が家にも泊まった。カバンから取り出したビニール袋の灰だらけのアーモンドの実とひよこ豆の味が忘れられなかった。この人が全日程いっしょになって自分の町サマルカンドを案内してくれると聞いて、この13日間の旅行団に加わった。あの灰だらけのアーモンドの実をもう一度食べてみたいこともある。

サマルカンドで2日目の夕食のときだ。この町のエスペランティストも加わって私たちの歓迎会ということで数人が遅れて入ってきた。平和と連帯の博物館館長の Anatoli Ionesof さんに紹介され私たちのテーブルについた。その中にこやかな日本人にも似た顔つきの男性が紹介された。名前は Viktoro Coj さんという。この国に住む朝鮮民族の牧師をしている人だと紹介があった。

話しかけてみるとゆっくりとしたわかりやすいエスペラントで答えてくる。話しているうちに、「えっ!エスペラント訳の聖書があるの?」と尋ねられ、こちらが驚いた。私は、ちょうどカバンの中に持ち歩いているポケット版の新約聖書があったので記念に差し上げた。彼にとっては初めてのエスペラント訳の聖書だという。私は、40年前にエスペラントを始めたとき独習書や辞書を買った後すぐに手に入れたのがこれと同じ新訳聖書だった。エスペラント訳旧新約合本の La Sankta Biblio がイギリス聖書協会から発行されており20ドルくらいで買えることを話した。すると、数日後に再会するときに20ドルを渡すから日本に帰ったら買って送ってくれということになった。旧約の部分はザメンホフが訳したことなども話した。

しかし、この国で買い物などをしているうちに20ドルの重さを感じ始めた。この国でキリストの福音を伝えているこの人に20ドルの本なら私がプレゼントしてもいいと思った。それに、Anatoli が2年前に話してくれた。ソ連から独立後のウズベキスタンには、イスラム教だけでなくキリスト教の教会も、カトリックやギリシア正教も存在していることを聞いていたので、この旅ではこの国の教会で使っている聖書を手に入れたいと思っていた。ウズベク語の聖書があるならそれと交換しようということになった。

サマルカンドの町
3月23日ウルグート山地へ一日遠足で登った山からサマルカンドの町を眺望

サマルカンドでは、古くからの世界遺産としてのモスクや関連施設を見学したが、バスはある日の夕食後ロシア正教の教会に寄った。ロシア正教の教会なら飾ったイコンなどを見るのは興味深いと期待したが窓は暗く門は閉まっていた。それならと、Anatoliはバスをカトリック教会へ回した。しばらく待つと見学OKということで明るい礼拝堂が開いた。数人の人たちがだれからともなく、順番に聖壇の前に跪いて頭を垂れている。信心深い人がいたのだ。(私は、聖母の絵とか十字架処刑のイエス像を前にしてひざまずいて祈りのポーズをとることができなかった。目に見えない創り主に、救い主に向かって心の中で祈ることをよしとしているので。)黒い修道僧服に白い粗ひもを腰にした神父がこの教会について説明してくれた。ポーランド出身の若い神父は当時の法王とエスペラントについても知っていた。この教会堂は以前は体育館として使われていたというが今は聖壇や信者の長いすなどが整い、時節柄パッション(キリスト受難と復活)の聖画が壁に並んでおり静かで美しい会堂だ。燭台のついた古いピアノがおいてあり私の仕事がら興味を引いた。

先日会った Viktoro も来た。彼はみんなの前で私の誕生日の祝いのことばを話したあと、3冊の本を渡してくれた。楽譜の本は賛美歌集であることがすぐ分かった。厚い本はハングルで書かれた旧新約聖書だ。もう一冊はウズベク語の新約聖書である。(日本に帰ってから朝鮮語の分かる息子に見せると、このハングルの聖書は日本の文語訳に匹敵するということだ。ロシア語をかじったことのあるという息子の妻はこの賛美歌集について、朝鮮語と対訳になっているページはロシア語であるという。ウズベク語の新約聖書は日本語などの聖書の順番とは違った配列になっておりこれから研究してみたい。)日本に帰ってから La Sankta Biblio をJEIから取り寄せサマルカンドのViktoro に郵送した。私の本棚にあったエスペラントの賛美歌集 Adoru Kantane とエスペラントで書かれた聖書辞典 Biblia Vortaro も同梱した。

もう一人のエスペランティストで H^olikberdi という名前の野菜農園を経営している人の家で夕食会があった。日本にしばらく滞在したことのある生物学者だという。彼のことを私は Holik と呼んだ。家の入り口の外で私たちを出迎えた大柄な女性を彼は、mia granda edzino "偉大なる妻"と紹介した。

食事の席で親戚一族が顔を出した。若い息子はエスペラントで自己紹介した。そのとき、Holik は見覚えのある本を手にしていた。名古屋エスペラントセンターの山口真一という僧侶がエスペラントに訳して発行した「仏典童話」だった。これをウズベク語に訳し終えたと言う。私は近くに行ってその翻訳の原稿を見せてもらった。大きな紙に手書きの原稿だった。そのうちにキーボードで入力するのだそうだ。

この Holikberdi Kozimov は「ねがい」という日本の歌をウズベク語に訳詞して発表している人だ。「ねがい」の31言語訳詞のうちの1つだ。そして、その夕食会では(確か、ロシア人と聞いたが) Jurj Vladimil という年配者が自分が翻訳したという詩を朗読して聞かせてくれた。"Nekonatulino"という訳詞がコピーで渡された。

うれしかったのは、3月21日という私の誕生日の祝いだった。Anatoli は大きな赤いバラを用意して私だけではなく同行の3月生まれの人たちにも渡して祝ってくれた。そして今日は H^olik が誕生カードを渡してくれた。例のレギスタン広場の大型絵はがきに "Kara Amada-san! …"と書いてある。私の名前を耳で覚えていたようだ。彼の自己紹介で私は彼の名前を Olik と聞いていた。こんなにうれしい誕生日は初めてだ。幸せな63歳。

バザールで買ってきたひよこ豆をほおばり、灰だらけのアーモンドの実の殻を開けながら今日も食べている。

(センター通信 n-ro 244, 2005年5月23日)


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