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エスペラント長編小説の祖アンリ・バリエン

猪飼 吉計

エスペラント長編小説の祖アンリ・バリエンは、医者で、1954年生まれで、エスペラントをはじめる前はボラピュックを習った経験がある。エスペラントは1903年からなので比較的遅いスタートになる。ちなみに1903年はフンダメンタ・クレストマティオが最初に出版された年である。

彼はエスペラントを初めてから2年目の1905年に全身不随の病にかかり、以後1908年に死去するまで、自室を出なかった。したがって、世界大会にさえ一度も出席することもなく、わずか5年足らずのエスペランティスト人生のほとんどをひとり著作活動に明け暮れ、その結果、膨大なラテン語やフランス語からの翻訳と二つの原作長編が残されることになった。

当然、バリエン以前にも原作を著した作家は存在したが、せいぜいが数十ページに留まったので、最初の本格的な長編の登場は、アシェット社から出版された、彼の500ページ前後に及ぶ1907年の第一作Kastelo de Prelongoと、1908年の第二作 Ĉu li? を待たなくてはならなかった。人工語でも本格的な長編が可能であることは内外に証明して見せた功績は大きく、彼の名はエスペラントの歴史にいつまでも刻み込まれるに違いない。

Kastelo de Prelongoは、19世紀中葉のフランスの架空の地名と考えられるプレローニュ村が舞台である。村の領主の家系と、かつてそこで執事をしていた家系との確執がテーマである。もともと執事であったリンシャルド家は土地の素封家となり、また、その次男ビクトールも輝かしい出世をおさめたが、あくまでもリンシャルド家は平民に過ぎなかった。そこでビクトールは、貴族の肩書きを切望し、貴族であるプレローニュ城領主の一人娘マチルダの婿になりたい旨を正式に申し出るが、領主は、身分の違いを理由に侮辱的な拒否の返答をする。そしてビクトールは、マキャベリ的な手段に訴えてでもマチルダを我が物にして復讐しようと心に誓う、といったあらすじである。

この作品にあらわされた世界は、領主に代表されるかつての貴族社会の倫理観と、ビクトールに代表される新興の勢力のマキャベリズムとの間の闘争のそれであるとみなすことができよう。ただし、バリエンはあくまでも前者を善玉、後者を悪玉として描くことに固執していて、この作品は、バリエンも含めた初期のエスペランティストの多くがそうであったブルジョアジー社会の世界観がそのまま反映しているといえよう。

そうした意味で言えば、この作品が描いている世界は、やがてプロレタリアートが勢力を得る20世紀のエスペラント界とは対極的な世界であり、消え行こうとする旧体制の世界観をノスタルジックに描こうとした作品である。

まさに、エスペラント最初の長編小説が旧世界の価値観の最後の砦となっているという点がこの作品の興味深い点で、ここに歴史の皮肉を見ることが可能であろう。

なお、この作品は上の意味ではもはや過去の作品といえるが、とはいえ、いやそれだからこそ、現代の作家には逆立ちしても書けないところの、かつての貴族社会の意識が十二分に描かれており、歴史的な資料としては非常に高いと言え、また、娯楽性の点で言えば最高に楽しいサスペンス性の強い読み物であり、読者を飽きさせないものとなっている。

第二作の Ĉu li? の舞台は19世紀から20世紀への世紀の変わり目のパリが主な舞台で、エスペラントも小道具としてわずかに二三回登場する。内容は広義での推理小説に入るような作品であるが、そこに描かれたテーマは怨恨であり、復讐であり、恋愛であり、不倫であり、と種々雑多なものが一つの坩堝に融合した、当時の連載ものの典型とされる筋立てである。現在で言えばテレビドラマが担っている役割を、この手の大衆小説が担っていたのであろうと思われるが、第一と同様、いつの世でも一般大衆の求めたがっている刺激的な筋であり、読んでいて楽しいが、読み終われば読者の精神に何ら益となるものを残しはしない。そして、読み物も少なく、語学的習熟の乏しい当時のエスペラント界が必要としていたのも、まさにこの手の娯楽文学であったことだろう。

なお、バリエンはフランス人であったが、1905年の第一回世界大会が始まる前は、ロシアは別として一般にエスペランティストはエスペラントの会話の機会は極めて少なかったようで、世界大会に出ていないバリエンはなおさらそうであったはずである。

その理由により、彼の作品の文体の欠陥のひとつとして、その会話の生硬さがあげられる。端的な例は、dankonという挨拶がすべてdankeになっているのである。当時はすでにdankonという挨拶は確立していたことが、たとえばSentisの1906年の作品Ursoによって確認できるので、バリエンがいかにエスペランティストとの交流が疎かったかが伺える。

もちろん、文体の奇妙さは会話に限らず、seやkiesやdaといった機能語の使い方が、現在なら校閲でいちいち直されるであろうような、彼独自のほとんど基本的な性質のミスも目立つし、その他、たとえばkompromitiの代わりにkomprometiなどという、カーベの辞書を見ても載っていない異形も頻出するし、関係代名詞とその先行詞とがおそろしく離れていたり、何度も読み返さないと意味の取れない箇所があったり、といった文体上の欠点も枚挙に暇がない。 このように細かい点を見ると穴だらけではあるとはいえ、いまだにエスペラント書に往々にしてあるような、読みにくさがあまり感じられないのは、内容の面白さのせいばかりとは言えない。事実、投票によりカーベが一番の文体家とされたとき、第二位はバリエンだった事実が示すように、けっこう流麗な文体なのであり、しっかりと校閲されていればという恨みが残るが、バリエンのこの歴史的な二作がいまだ完全な形では再版されていないのは、きっと以上のような理由があるのだろうと思われる。

なお、なぜ、このようにエスペラントの言語的な習熟度がいささか怪しいバリエンに、このような偉業が可能であったかという疑問がある。

答えは以外に簡単に出せるように思われる。というのも、彼は、生涯を通じて趣味として文学に親しんでおり、ラテン文学やフランス文学に通暁していたらしいのである。ひょっとしてエスペランティストになるまえに、すでにフランス語で小説を試していたことさえ考えられる。そんな彼が、歴史のまだ浅くろくに文学のないエスペラ ントに出会って、エスペラントで原作を試みるのに大きな飛躍は必要としなかったであろう。

いわば、バリエンは、たまたまエスペラントで小説を書きはしたが、エスペラント界に固有なテーマを小説の中心に据えるにはいまだ至らなかった、ということは言えるであろう。