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エスペラントは,今から約90年前ポーランドのザメンホフが提案した「国際語」である。常に大国から物理的にも心理的にも圧迫をこうむり、受難の歴史をたどる弱少民族の一員であった彼は、その悩みと苦しみの中から、異なる民族が真に自由に交流し友義を育て、平和を達成するには「言語の平等」こそが何よりの基礎でなけれぱならないと考えるに至った。そして近代文明を決定づけたヨーロッパの諸言語をもとに、論理的で簡潔な文法体系を考案し、長い試みの後、1887年にこれを世界に発表した。
目先の利益を追いかけることに汲汲とし、結局は力が万事を決めてしまう仕組の世の中では、ザメンホフのこの理想は無視されるか、あるいは夢物語だと一笑に付されるかであったが、それでもごく少数ではあったが、ザメンホフの考えを真剣に受けとめ、これを自らの願いとした一群の人々が居た。この人々の地道な努力によって、エスペラントは実際の生活の場で使われ、切磋琢磨され、次第にその支持者を増やしていった。
ザメンホフをエスペラントの「提案者」と呼ぶのは、エスペラントがザメンホフ個人の「作品」ではなく、わずか90年ほどの短い歴史ながら,世界各地に散在する無数の、エスペラントを話す大衆のたゆまない創意によって、着実に、ひとつの「生きた言語」—国際語—に成長して来たからである。国境を越えて、全地球的規模でひとつの新しい言語共同体が形成されたのである。その点で、エスペラントの発展の歴史は、他の日本語や英語のような「自然語」と原理的に何ら異なっていない.「人工語」というと、知らない人は何か無味乾燥のぎくしゃくした符丁のようなものを想像しがちだが、実はエスペラントに関する限りそうではない。エスペラントをいわば自分の第2の「母語」と見なし、このことばで詩を書き、小説を綴る人のいかに多いかが、この展示会に出された書物を一見してもおわかりになると思う。
今日、エスペラントは観光旅行や国際文通に活発に使われるほか,小中学校や大学で教えられたり、研究の対象にもなっている。ワルシャワやウィーン、北京、ザグレブをはじめとして、およそ15カ国の都市でエスペラントによる国際放送も行われている。
エスペラントは、「自然語」にとって代ろうとするものでは決してない。各民族が目分の「母語」を大切に育成するかたわら、国際生活の面で、言語の公平、中立を期そうとするものである。交通機関の発達で地球はますますせばまった感があるが、国境という概念は依然として頑強にひとびとの意識を規制している。外国語習得という困難なハンディーを背負わされた国民は、さまざまな国際親善の場でも、妙な心理的負担に悩まされたり、せいぜい徴笑を交す域を出ず,真の「人間」対「人間」という関係での深い交流はなかなか行われないのが実状である。一部のエリート層だけでなく、広く一般大衆が通訳や翻訳を介さないで直接に接触し、互の理解を深めていかなければ、「国際友好」とか「平和」とかのことばは、いつまでたっても空疎なひびきしか持ち得ないであろう。学習の極めて容易なエスペラントは、このための最も適切な手段と云える。
(名古屋市立大学助教授)
1906年に日本エスペラント協会が創立されてから70年、財団法人日本エスペラント学会が生まれてから50年、そして今年の日本エスペラント大会が8月21・22日と愛知県労働者研修センターて開かれるにあたって私達は、その関連行事としてここにエスペラント出版文化展を企画しました。
エスペラント出版文化の歴史をみる時、三期に分けるのが適当だと思う。第一期はエスペラント発表から第一次大戦まで、第二期は第一次大戦から第二次大戦まで、そして第三期は戦後という様に。今回は、出版活動に大いに活躍した人々とその人の作品を振り返ってみたい。なお、本文中エスペラントを略して「エス」と記したところが多数ある。
この第一期に一番活躍したのは、エスぺラントの創始者ザメンホフてある。それにグラボウスキ(GRABOWSKI)等FUNDAMENTA KRESTOMAT1O(エスペラント基本文範)への協力者達およびカーべ(KABE)が中心人物である。
1887年、27才の彼はエスペラントというペンネームで「第一書」を発表する。この第一書には、16条の文法、900語の単語集、ハイネの詩や聖書の訳、2つの原作詩を含む28頁の本であった。彼の詩は優れたものではないが、エスペラントという新しく生まれた言葉の可能性を示すには充分だった。また、彼の詩は当時少数であったエスペランチスト達の同胞意識を高めるのに役立った。
ザメンホフの論文も数が少ないが彼の人柄を知るうえで欠くことのできないものである。特に重要な論文に「国際語思想の本質とその将来」がある。これはエス基本文範という本の中で発表されたものである。他の論文については全てデイテルレが1929年に編集した「ザメンホフ原作文集」がある。
1905年彼が45才の時フランスにおいて第一回世界エス大会が開かれたが、この時の彼の演説は、以後の大会演説同様ザメンホフ原作文集に集録されている。
ザメンホフ没後編集されたもう一つの重要な本は、「ザメンホフの手紙」である。特にこの手紙集は彼の人間性、苦しみや喜びを知る為に不可欠である。
エスペラントの文法等に関する彼の作品は、わずかに「エスペラントの基礎」と「文法問答(リングバイ・レスポンドイ)」のみである。文法書や原作が少ないのは彼は翻訳によってこそエスペラントの可能性を最大限に誇示できると考えていたから。このようた翻訳重点主義は第一期の中心人物に共通した考え方である。ザメンホフは翻訳にあたって特に戯曲を好んで訳したが、それは生きた会話の模範を示す為と言われている。
Cディケンズの「人生の戦い」の訳は雑誌「ラ・エスペランチスト」に1891年に発表されたが、本となって発行されたのは1910年で初期のエスペランチストに与えた影響は少なかった。1894年に発表されたシエークスピアの「ハムレット」の訳は、エスペラントの宣伝に大いに役立ち,加えて当時のエスペラント改革動向を静めた。
1907年ゴーゴリの「検察官」訳、1908年モリ工一ルの「ジエオルジ・ダンダン」訳,同年ゲーテの「タウリスのイフイゲニ」訳、シラーの「群盗」訳、1910年には、オルゼスコの「マルタ」訳、このマルタは彼の翻訳の中でも最高の出来と云われ、清見陸郎は「寡婦マルタ」という重訳を改造社より出版した。また「エス訳諺集」も1910年に出版された。アレヘムの「ギムナジュ一ム(中学校)」ハイネの「バハラハのラビ」訳は、1914年に発表された。アンデルセンの童話の訳は、彼の死後四巻に分けて出版された。その他ザメンホフの訳したものに旧約聖書の部分訳がある。今日手に入るエス版の聖書には彼の訳と異なる部分がかなりある。
ザメンホフがこの本を出すにあたって考えていたことは、模範的文体とエス語が分解していくつもの方言にならないようにすることであった。この本は、ザメンホフが書いた物や、編集した物から成っているが、彼は他のエスペランチストの文体についてはチエックをして,彼の文体と違わないようにした。ザメンホフはこの本の原稿を、ニュールンベルクで1885年から95年まで発行されていた「ラ・エスペランチスト」から集めた。この本には練習句集、童話、物語逸話、科学的記事及び70編の詩から成っている。詩歌の部で目立つのは、グラボウスキー、レオ・ベルモント、デビヤトニン、コフマン,フェリックス・ザメンホフ達である。
彼は30もの外国語を知っていた博言家と云われ、エスペラントよりも前に発表された国際語案ボラピュック語も学んでいたが、彼にさえもボラピュックは難し過ぎた。第一書発表後すぐにエスペランチストとなった。ザメンホフと最初にエス語で話をしたのもこの人である。彼はポーランドの作家ミッキエピッチの作品を「シンニョーロ・タデーオ」という題名で訳し、「エス詩の父」と呼ばれるようになった。エスペランチストの集会でよく歌われる「タギージョ(夜明け)」という歌は彼の手によるものである。
エスペラント基本文範には、ザメンホフについで多くの訳詩をのせている。
ザメンホフの弟。運動の初期事務を分担して兄を助けた。ラ・エスペランチストに詩を投稿している。彼の作品集は、死後1935年にハンガリーで、「VERKARO DE FEZ」の題名で出版された。FEZは彼のペンネーム。
カーベというのは、彼のペンネームである。彼はエスエス辞典を編纂したが、この辞典は後のプレーナボルターロ、及びプレーナ・イルストリータ・ボルターロの基礎となった。プルスの「エジプト王」訳で、エス文学界の第一級の文体家と呼ばれるようになった。彼の文筆活動は翻訳のみであるが、それは原作家は難しい表現を避けエスペラントの発展成長に役立たないと考えたからである。ツルゲーネフの「父と子」の訳は最近、デンマークにて再版がでた。1911年彼は突然理由も明さずにエスペラント界を去ったが、これが有名な「カーべの失踪」であり、KABEIGXOという言葉が生まれた。
ザメンホフ及び彼を取り巻くスラブ系のエスペランチストに加えて、1900年頃よりフランスのエスペランチストの影響が大きくなった。このフランス時代というのはスラブ時代程文学的には優れていないが、その特色は、多数の著名な科字者達が運動を指導した点にある。
フランスの数学者、雑誌「ラ・レブーオ」の編集長、フランスの大出版社アシェット(HACHETTE)がザメンホフの著作を出版するようになったのは彼の働きによる。文芸コンクール「花遊び」を作ったのも彼。
雑誌リングボ・インテルナツィーアの編集長。「カール語録」は1927年に出版された。言語に関しては保守的で、ザメンホフ以上に「エスペラントの基礎」を絶対化していた。また盲人用に点字の雑誌を発行した。
フランスの哲字者。1905年の第一回世界エス大会の会長。彼の作品には、エスエス辞典、モリエールの「ドンファン」訳がある。「エスペラントは民主主義のラテン語」と言ったのは彼である。
彼の造語法理論「必要と十分」はエスペラント文体の近代化に大いに役立った。彼は後にエスペラントをやめ、新しい国際語案,アンチード1、アンチード2、リングボ・コスモポリータ、エスペラチード、ノブ・エスペラントを発表した。
大戦の4-5年前にエス界に登場した人物の中で最も目立ったのは,プリパー(E.PRIVAT)(1889-1962)である、美文雄弁家として知られた彼の作品には「ザメンホフの生涯」「エスペラントの歴史」等がある。
第一次,第二次大戦の間で(1919-1939)最も重要なのは、月刊誌「文字世界」をとりまくブタペスト学派の活動である。
1920年にドイツにおいて、テオ・ユングの編集のもとに週刊紙「勝利するエスペラント」が創刊された。これは今日の「ヘロルド」である。ユングの作品には「幻想の国々」という長篇ユートピア小説「愛の高唱」という詩集がある。
「エス独百科大辞典」を出したビュスター(E.WUSTER)「リングバイ・レスポンドイの独語注解」を施したリップマン(W.LIPPMANN)、「ザメンホフ原作文集」を編集したデイテルレ(J.DIETTERLE)達がこの学派の中心人物であった。
この時代,ハンガリーのブタペストはエスペラント国の首都であった。ここに君臨したのはバギーとカロチャイの二人である。
この月刊誌「文学世界」はそれまでの雑誌の素人臭いものとは違って純文学を目的としていた。最近この「文学世界」の第2版が、全六巻に分かれて日本で出た。
文学世界は出版社としても活躍し、8年間足らずに、約80冊の本を出版した。
彼は多くのエス原作詩、原作散文を発表した。詩集には「人生行脚」「巡礼」「流浪の旅」「放浪者の歌」がある。散文には「おどれ,あやつり人形」「犠性者たち」「血の流れる大地」等がある。彼は第一次大戦中に捕虜としてシベリヤにおくられたが、その時の体験を詩や小説に書き表わしている。彼の人道主義はエスペラント界の「父ちゃん」と呼ばれるにふさわしいものであった。
韻文の翻訳、文章論などの著作が多い。原作詩には、「世界と心」「はり切った琴線」「韻律肖像」がある。翻訳にはダンテの「神曲、煉獄篇」等多数ある。バランギャンと共著の文法書「全文法」はキログラマティーコと呼ばれた程である。「作詩案内書」も高く評価されている。彼の新語法(ネオロギスモ)採用については、保守的エスペランチストから批難された。
1933年と1934年に2巻に分けて出版されたこの百科事典は、当時までのエスペラント運動を知る上で欠くことの出来ない本である。この百科事典には世界各国50名以上の協力者があった。現在ではもうこの本は手に入らないが、もし現代までのエスペラント運動を知ろうとする人にとっては「エスペラントの展望」(エスペラント・エン・ペルスペクティーボ、¥9、500)がある。尚、現在この百科事典の改訂版が編纂中である。
エストニアの運動が花咲いたのは1920年代であるが、特に目立った活躍をしたのはヒルダ・ドレーゼン(HILDA DRESEN)である。彼女は詩の訳もしたが、原作詩によって評価されている。
この時代のフランスの運動をリードした人達は、第一期で述べたカール、今日のエスエス辞典を編集したグロジャン・モーペン(GROSJEAN-MAUPIN)、その弟子バランギャン(G.WARINGHIEN)と、モダニズム文学作品をエス界にもち込んだレイモン・シュワルツ(RAYMOND SCHWARTZ)の四名である。シュワルツの原作「喜びの腰石」「緑猫の遺書」「微笑の散文」「河水のごとく」「アニーとモンマルトル」「風変わりな店」等は現在全て再版されており、現在でも彼の作品を読むことが出来る。
バトラー(M.C.BUTLER)が運動の中心人物であった。この時代ドイツから帰化したロイケン(H.A.LUYKEN)の作品に見るべきものがある。特に彼の「イシタールに神かけて」は古代バベルを背景にした大ロマンで、また文体も非常に素直で読み易くエスペラント原作文学のトップクラスに位置している。
その他の地方においても比較的優れた人物や作品があるが、2人の作家を紹介するだけにする。エングホルム(S.ENGHOLM)の原作にスエーデンの農村を舞台にした「トレントシリーズ」がある。「トレントヘ」「トレントの子供たち」「トレントの若者たち」「生命は叫ぶ」である。もう一人の作家にジヤン・フォルレジュ(JEAN FORGE)がいる。「深淵」「飛躍数千年」「トット氏千眼を買う」「緑のロケット」「私の緑の愛読書」等の原作がある。彼の作品は娯楽文学に属するものであるが,流れるような文体は読者を離さない。
1956年に創立されたエスペラント出版社「スタフェート」は現在までにすでに80冊以上の単行本を出版し「文学世界」なきあと,エス界最大の出版社となった。戦後の名著の半分以上がこのスタフェートから出版されている。
紙数の都合で第三期は数名の作家とその作品を簡単に記すだけに留める。
「エス文学選集」「英文学選集」の編者として知られるオールド(W.AULD)。「ザメンホフ伝」を書いたボルトン(M.BOULTON)。「大冒険」「おとぎの海の向う」「南と北との間」「小さな神秘」等で知られるシラジー(F.SZILAGYI)。彼の軽妙な文体は有名。科学フイクション小説「機械世界」と風刺ユートピア小説「カゾヒニアヘの旅」の作者シャトマリ(S.SZATMARI)。万国エス協会会長で知られたラペンナ(I.LAPENNA)、彼の作品には「修辞学」等多数ある。最近再版のでた「本当ですよ奥さん」の作者ロセッティ(C.ROSSETI)。
戦後の作家や作品と日本人の作品については、また別の機会に紹介したい。
なお、エスペラントに関する質問は、名古屋エスペラントセンターへお寄せください。
(南山大学外国語学部卒)