本と批評

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パソコン時代の 4000 年前の物語

山田 義

"La Skandalo pro Jozefo" という本がチェコの KAVA-PECH から出版された。

著者は 1981 年に 63 歳で亡くなった劇作家 Valdemar Vinar^ 。ヴァルデマ・ヴィナシュと読むのだそうだ。彼のこの作品はエスペラントで書かれたものである。ヨセフの…という題名からも分かるように、これは、創世記のヨセフの物語を題材にした作品のひとつである。後半にあるアブラハムの子、ヤコブの末息子、ヨセフの波瀾万丈物語であり、もちろんエジプトが舞台である。

今度出たこの 2002 年の単行本版は 90 ページほどのハードカバーである。初出版は 1981 年だそうだ。 実は珍しいことだが、今回この単行本が出版され話題になる前に、すでに日本語とチェコ語の翻訳が出ている。 チェコ語訳については、 KAVA-PECH という出版社がこの聖書劇の作者がもともとチェコ人であることを認識し、日本語の翻訳があるならチェコ語でも出そうということだったようだ。 2000 年のチェコ語訳の装丁およびイラストは、エスペラント第二版のものとまったく同一だということだ。

私はこの本の日本語訳を数年前に読んでいる。「薮の中のヨセフ」という小さな本だ。名古屋エスペラントセンターの猪飼吉計さんはその当時、雑誌に掲載されたその初出版を見つけ、それを読み通し、そのおもしろさに魅せられ、翻訳し、出版までしてしまった。この、「薮の中のヨセフ」という題が付いた小冊子で 1996 年に出た。

私は最初にこの日本語訳「薮の中のヨセフ」を興味深く読んだ。そのときの感じは、多くの翻訳ものにありがちな日本語のぎこちなさがこの本には無いことだった。そればかりではなく、その台詞は登場人物を見事に表現している。原作はエスペラントで書かれているというが、ひょっとしてそれよりも優れているのではないかと思っていた。エスペラントではこれだけの言葉遣いの違いを表現することは無理なことで、所詮翻訳者がそれを補足してこのような面白い日本語に直したに違いないと思っていた。エスペランティストである以上、そのエスペラントの原作を一度は読んでみたいと思っていた。

ところが、それから数年後、今回の魅力的な装丁の原作本が手に入った。手にとって、すっかり気に入ってしまった。エスペラント界では第 2版が出る本は少ないと聞く。この本がこんなに自信ありげな立派な装丁になって再版されたのも日本語訳の存在も影響したのではないかと思う。

ハードカバーの角背の天地を花ぎれで飾った本だ。糸綴じの開きやすい本だ。巻末には出版社などの広告が8ページもある。ペン描きの挿絵が各章のタイトルページにページ全面を使って読者の目を楽しませてくれる。しかもその裏は全面が白。うがった見方をすると、短い本文の内容の本をいかにも分厚く体裁の整った本にするための工夫だ。珍しい装丁として、表紙から扉、本文、解説文、広告ページまで本の全部に、今我々のいうワープロのヘッダという部分にエジプトの象形文字が並んでいる。文章の段落の改行はすべて空白行で示している。いかにもワープロ時代の組み版といえる。舞台は 4000 年前のエジプトであるがその内容は現代の退廃を訴えている作品といえる本であるが、こういった体裁の工夫からも読みとれる。読んでいるとつい現代の物語のつもりになるが、このページのヘッダの象形文字が遠い昔を思い出させてくれる。

原作本に挿入された魅惑的な人物画の挿絵がいい、全部で9葉ある。この魅力的なペン描きの筆致について、はからずも獄中の青年ヨセフが語っているので訳本から拾い出しておく。「なかでも目を見張らせ気を引き続けたのが、エジプト人の女性だった。故郷カナンでは僕(ぼく)とおなじ民族の女性たちは、じみな色の重い服を着てたしみなよく体を覆っている。ここではまったく逆で、エジプト女性が服を着るのはただ女性らしさを強調するためといってもいい。最初のうちは、魅力的な女体の誰憚らない曲線が透けた服の下からはっきりと描き出されているのを見ると、まごついていたのを思い出す。……」 (猪飼吉計訳 )。挿絵は、 Radim Va'cha という人の作品だ。

今ではインターネットで多くの作品をテキストの状態で受け取ることができる。無料でいろいろな作品を読むことができる。しかし、こういう本を手にすると、どのページを見ても書籍の形態のすばらしさ、愛着を感じる。喫茶店で開いて読んでも、本棚に立てておいても自分のものであることに誇りを感じさせてくれる本だ。

この本の構成は、章毎に登場人物が一人出てくるモノローグである。ヨセフが奴隷として売られた先が、エジプトの王 パロの廷臣ポティファルであるがその妻に仕える女奴隷がこの本の最初の登場人物。言葉遣いは舌足らずであり、それが可愛くもあり、魅力でもある。彼女の台詞がこの本のプロローグとなって最後まで読む人を飽きさせない。日本語に訳した猪飼さんの語彙の多さに驚くが、この訳者は一体どこでこういう女性の言葉遣いを身につけたのだろう。そこらの飲み屋で女性をからかっては語彙を増やしていったに違いない。教養はないが気転と知恵のある若い女性の軽いことば、 ポティファル夫人のなまめかしい言い回しの違いを日本語訳でははっきりと読みとれるのだが、 "La Skandalo pro Jozefo" を手にするまでは、果たして原作のエスペラントでそれを表現できているのだろうかという疑問があった。しかし、日本語訳「薮の中のヨセフ」の優れた作品内容は原作の優れたエスペラントの表現に負っていることが分かる。

ところで、翻訳者はロトのことを訳者注として、聖書の記述からすると間違っていると記している。ヨセフのモノローグの中でロトをアブラハムの弟と呼んでいるが、ほんとうはアブラハムの甥(おい)に当たる人物である。訳者注では面白いことに、「作者が」と言わずに「ヨセフが思い違いしてる」と注を振っている。登場人物が思い違いしているのではなく、それは作者自身のはずである。でも翻訳者としては原作者に敬意を表したのだと思う。

そこで、私も原作本の読者としてその中の間違いをひとつ見つけたので記しておく。間違いといっても、エスペラント訳聖書との差異のことであるが、ヨセフは自分の祖父の名前を Izaak と呼んでいる。聖書中のイサクの綴りは Isaak である。「ヨセフが思い違いして」覚えた祖父の名の綴りであるとしておこう。この「思い違い」にこだわるのは原作本の各章のタイトルページにはザメンホフ訳旧約聖書からの引用が載っているのだから、その聖書には見あたらない Izaak はちょっと目障りであるいうことからだ。

もうひとつ、兄たちが少年ヨセフに言っている個所。 "Malaperu, ĉemizpisulo! " が「小便シャツは消えちまえ。」と訳してあるが、下着に小便を漏らす人、すなわち小便臭いヤツという意味ではないだろうか。

先週だったかインターネットラジオでオーストリア放送を聞いていたら、取材録音でチェコ・エスペラント会の代表が活動報告の中で La Skandalo pro Jozefo が発行されたことを言っているが、日本語の翻訳がすでに出ていることにも触れていた。 UEA のEsperanto 誌6月号の "Laste aperis" でも取り上げている。

挿絵の中の 1枚にピラミッドが 3つ遠くに建っている絵がある。有名なギーザのピラミッド群であり、第 4王朝に建てられたといわれる。それはヨセフの曾祖父アブラハムの時代にさかのぼる。数年前にはカイロから数キロにあるあの有名なピラミッド群を見て足で登ってきたが、ヨセフもこれを見上げていたことだろう。