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7月に妻と息子とともにヴェネツィアを訪れ、3泊した。イタリアは3度目だが、ヴェネツィアは初めてである。2日目のこと、フラーリ教会を見て昼食を取ったあと、ふと、ヴェネツィアにもゲットーがあったことを思い出し、行ってみる気になった。
例によって携えてきた『地球の歩き方』を開いても、あいにくゲットーについての記述はない。ただ、同書の地図に「新ゲットー」とあるので、多分このへんだろうと当たりをつけて歩き始めた。ところが、何しろヴェネツィアである。迷路のような通りを歩いているうちに道に迷い、だんだん人気がなくなり、イエズス会の前を通りすぎたら、とうとう、さみしい河岸に出てしまった。向かいに見えるのは、墓地の島であるサン・ミケーレ島だ。それでは、ここはフォンダメンタ・ヌオーヴェ、「新しい河岸」だ。といっても、舟が何艘か停泊しているばかりで、反対側には壁が続く、およそ殺風景なところだ。
それでも、そこから引き返して出た運河沿いの道で、地元の人が立ち話をしていたので、おぼつかないイタリア語の単語を並べて道を尋ね、何とか見当をつけて歩いてゆくと、リアルト橋からヴェネツィア・サンタ・ルチア駅に通じるにぎやかな道に出た。そこをはずれて人通りの少ない道をしばらく歩くと、小さな運河に、これまた小さな木の橋がかかっている。その橋を渡ったところに、建物の下を貫通する小さな暗いトンネルが口をあけていて、入り口の上に PONTE DE GHETO NOVISSIMO というプレートがかかっている。
そのトンネルを通り抜けると、さほど大きくもない広場があった。これが「新ゲットー広場」で、その周辺がゲットーのようだった。まわりには、ヴェネツィアには珍しい6階か7階ぐらいの建物が肩を寄せ合うようにひしめいている。井戸があって、何本かの木があって、その下にベンチがいくつかある。子どもたちがサッカーをしている。人どおりはそう多くない。ユダヤ教の帽子をかぶり、ヒゲを生やした青年たちが広場を行き来している。観光客でにぎわう通りから少し入っただけなのに、閑散とした印象である。観光地というよりも、日常的な雰囲気が漂っている。
物珍しくて、広場を一巡しているうちに、とある建物の壁に何枚かのプレートが埋め込まれているのに気がついた。そこには、1943年に、ここの住民が強制収容所に連行されたと書かれていた。1943年というと、ムッソリーニが失脚し、ドイツ軍がイタリアを占領していた頃であろうか。
思わぬものを見て胸をつかれたが、所詮は行きずりの観光客として、しばらくそこにたたずんだのち、お定まりの写真を何枚か撮ってから、今度は別の道を通って、そこを後にしたのだった。途中には、ユダヤ教の祭具や書物を売っているらしい店や、コシェルというのだろうか、宗教的に清浄な食物を食べさせる店もあった。あとで知ったのだが、どうやらそちらのほうは、旧ゲットー地区だったらしい。ほどなく、にぎやかな通りに再び出たのだが、何か夢からさめたようだった。
日本に帰ってから調べると、うかつな話だが、私はヴェネツィア・ゲットーについて読んだことがあるのだった。須賀敦子の『地図のない道』(青土社、1998年)や『時のかけらたち』(新潮社、1999年。なお、いずれも、『須賀敦子全集』第3巻に収録。河出書房、2000年)に、彼女がそこを訪れたときのことが書かれているのである。一読しただけで書架にしまい込んだので、すっかり失念していたものらしい。改めてページを繰ってみると、ゲットーには博物館があり、また、ゲットー内のシナゴーグをめぐるツアーもあるのだそうである。行く前に思い出していれば、と多少残念な気もしたが、仕方がない。それに続いて、徳永洵の『ヴェニスのゲットーにて』(みすず書房、1997年)も読み、久しぶりに反ユダヤ主義思想史を辿ることになった。
徳永によれば、ナチス・ドイツ軍の侵攻とともに、ヴェネツィアのゲットーからは人口の5分の1が老若を問わず連行され、イタリア全土で、8,500人から9,500人が犠牲になったとのことである。ワルシャワ・ゲットーや東欧ユダヤ人については、多少のイメージがなくもなかった。それにひきかえ、ヴェネツィア・ゲットーについては、ほとんど知識がなかった。しかし、徳永によれば、ゲットーという名前自体が、ヴェネツィア方言の鋳造所を意味することばに由来するというのがほぼ定説なのだそうである。この地区が、もと鋳造所の鉱滓やバラスの集積地だったことから、この名がついたものらしい。 今この文章を書いていて、「もしも私がゲットー出身のユダヤ人でなかったら、人類の団結という考えを抱くことはなかっただろうと思います。」という、遠く学生時代に読んだザメンホフの文章がにわかに身近なものとして思い起こされる。彼の子どもたちも、強制収容所で殺されたのだった。ヴェネツィアというはなやかな大観光地で、ゲットーを偶然訪れ、そこでユダヤ人虐殺というヨーロッパ史の一面にはからずも触れて、強い印象を受けた次第。
(センター通信 n-ro 221, 2000年10月30日)