通信より

「第89回エスペラント世界大会北京」に参加して

杉原直

大会テーマ「 Lingva egaleco en internaciaj rilatoj 」のもとに、 7月の下旬、北京アジアスポーツセンター国際会議場で開かれました。私は二年間の重慶医科大学での日本語教師の仕事を大会参加の前日に終え、重慶世界語協会の grupanoj と一緒に、列車で 24 時間かけて北京へ行った。この二年間、重慶世界語協会の人達と旅行をしたり、日本の歌を歌ったり、ポーランドからのお客さんを迎えたり、チベット協会設立の寄付をしたり、と、お付き合いをしてきた。今では 2〜30 名程の rondo で淋しいが、多い時は 2000 人もの会員がいたと言う重慶世界語協会である。 1950 何年かの設立だと言うが、私は 1935 年に創設された時の小さな写真を、重慶にある抗日戦争の記念館で発見しているのだ。今回の大会申し込みは、 2月に日本でしたものの、参加所属は重慶の人たちと同じにしてもらった。

大会速報に載った正式参加者数は 2027 人。正式登録をしていない、会場、大学宿舎、バス乗場、案内などでの若い helpantoj も含めると、 2500 人近くになるのではないか。

会場周辺の主要道路には、「世界語大会」の旗が何百本もはためき、タクシーの運転手や商店街の人たちも、世界語ってどんな言葉だね、と驚くほど、大きな宣伝がされていたのだが、中国中央テレビのニュースでは開会式の模様がほんの数分だった。 18 年前 1986 年北京大会では我々名古屋のメンバーも大勢参加し、中国のエスペラント熱は最高潮だった思い出があるが、今回は英語熱に押されてか、若い人達の数も減り、少し淋しい気がした。

私たちは会場からバスかタクシーで 10 分ほどの所にある大学招待所で、一泊 50 元で寝泊りした。重慶会長の Eさんは会場ホテルで二泊して仕事のため秘書と先に帰った。彼は 10 年前までは熱心なエスペランチストであったが、今は重慶では「有名で便利なバス、タクシー会杜」の経営者として忙しく、エスペラントの学習からは遠のいてしまっているのだが、会杜の事務室の一室をエスペラント界に提供し、「重慶世界語協会」の大きな看板はこの入り口に掛けられている。彼は外国から重慶を訪れるエスペラントの客人をもてなす資金源の重要人物だ。

私たちは招待所から毎日会場までバスで通って、大会の催し物に参加した。主催者主催の旅行には料金が高いので参加しなかった。一日旅行の日には、重慶メンバー 6人で秀水街の安物市へでかけた。アディダス、ナイキ、などのにせブランド商品を安く売っている問屋街だ。重慶の朝天門より安いと、女性の Yさんは衣類や装飾品などを買い込んだ。皆で値切って、それぞれに買い物を楽しんだ。

皆がくたびれて、半日休むと言った日、私は gvidanto のKさんを誘って、盧溝橋へ行った。抗日戦争の原点となった所だ。 Kさんや私が生まれた頃の歴史の跡を訪ねてみようと、私が誘った。大会の案内書には「 Lugou-ponto; Konata ankau kiel la Marko-polo-ponto; la plej bona ponto en la mondo: 」と記されて、何ら戦争の事には触れてはいない。タクシーで一時間以上、車中、私は Kさんと子供の頃の戦争の話をした。戦争の記念館へもタクシーを回してもらった。丁度夏休みに入ったところ、学生たちで賑わっていた。このような戦争記念館は重慶にもまた中国各地にも沢山ある。戦争の悲惨さをしるす記念館は、中国では、巨大でしかも多い。後で知った事だが、丁度この頃、重慶医科大の隣に出来たスポーツセンターのサッカー会場で、日本チームに対するブーイングが起きていたとは。

重慶理事長の Mさんが大会テーマに沿った意見を原稿にし、発表する準備をしていた。私たち 8人全員は、 Mさんの発表を聞くべく、会場に早くから足を運び、彼の出番を待った。昨夜も彼は原稿を読み上げる練習をし、また彼にとってはこの為の参加でもあった。だが、当日発表者が多かったのか、レベルの高い人の時間が多かったのか、彼に時間は与えられなかった。残念にも彼の発表を聞くことなく、私たちは萎れて宿に帰った。

Bankedo の費用は私たちにとってとても高かった。そこでこの日は街のレストランで豪華なご馳走を皆で食べた。別の日には、名古屋へ来た事があるあの有名な李士俊氏らをも誘って、我々と食事をした。会場では重慶を訪れたことのある岡山のドクター Mさんを囲んで、その時のことを懐かしんだ。私は Mさんに初めてお目にかかるのだが、重慶の人達からは、以前、「長谷川テルの住んでいたアパートをはじめて訪れた日本人」のことを聞いていた。「上清寺にあるアパートで、今では一般の人が住んでいる所でねえ」と。この方達だったのか、と、感慨深かった。重慶の人達は Mさんが訪れた時のことをよく覚えていた。あの時 Mさんはこうしてなどと、動作の一つ一つに至るまで語り合っている姿を見るにつけ、よほど珍しい日本人の訪問客だったのだと、深く感じ入った。

会場の受付でお手伝いをしていたのは我々の仲間の Zさん。彼は早くから北京に来て大会の準備を手伝っていた。重慶では電気機械の便利屋さん。自分のライトバンに「 Se vi estas esperantisto, mi zorgos vin senpage. Ĉu vi parolas esperanton?」と書いて、重慶を訪れるエスペランチストに、献身的に世話をしていた。これが僕の趣味だ、と、彼は言っていた。彼は北京の謝さんの学校で、春節の頃から若い人達にエスペラントを教えていた一人なのだ。

北京の謝さんと言えば、名古屋のエスペランチストは、ああ、あの人かと、思い出す人も多いと思う。上海のエスペラント学校でエスペラントを専門に教え、後、名古屋でアルバイトをしながら日本語を河合塾で習い、中国へ帰った人のことである。名古屋では 8年近く苦労を重ね、北京で私立の専門学校を作った。今では、生徒数 1500 人を越える大きな学校で、北京の北部、昌平区にあり、敷地も広く、まだまだこれから大きくする計画が着々と進んでいる。彼はここの実質的学院長だ。全寮制だが、ここにエスペラントのクラスが一クラス出来た。私は、日本語教師の会議が北京で開かれた 3月、出張のついでにここに寄って、エスペラントのクラスに顔を出したのだ。その時はまだ何も話せなかった若い人達ではあったが、この大会では helpanto として活躍しており、懐かしく迎えてくれた。

大学招待所近辺に宿泊していた人達は、夜遅くまでよく飲んでよくおしゃべりした。夜の風は少し暑かったが、ビアガーデン風に、外の風に吹かれて 6元の生ビールを飲んだ。 Arta vespero の舞台では、韓国の太鼓グループが何度となく登場して、うんざりするほど目立ったが、我々は満たされない気持ちで帰り、宿の近辺のレストランで、踊ったり歌ったりして、楽しい夜を過ごした。会場の入り口はガードマンがいるので会員登録者以外は入れない。でも招待所の近くで飲んでいると、会員でないエスペランチストにもよく出会う。肩にぶら下げている大会の Sako を見て、韓国の若い男女のエスペランチストがやって来た。どうぞ一緒に飲めよ、と、輪に入れた。エスペラントは役に立つのか、と、言ってきた。現に君と一緒に楽しく飲んでいるじゃないか。難しい理論はまあいいよ、まあまあ楽しくやれよ、と、我々は言って仲良く飲んだ。

会場では色々な人に出会った。私のエスペラントは未だもってたどたどしく、拙いものだ。エスペラント学習にそれほど焦るでもなく、あくまでも小さな趣味として通している。それでも大会に参加していると、以前に知り合った人と再び顔を会わせる機会が多くなる。自然な気持ちで、話をすることとなり、大会に親しみを感ずることとなる。大会の催しもさることながら、会場をぶらついたり、椅子に座って休憩しているだけでも、退屈で窮屈な思いはしない。休んでいればいるで、何かと新しい出会いがあるものだ。ネパールの人がヒマラヤの絵葉書に書いてくれた。「私の趣味はエスペラントと旅行。エスペラントがあるから旅行が出来る。」と。そうだ。私もエスペラントのお陰でこんな楽しい旅行ができる。安く旅行の出来る方法を考えて、カトマンズでのアジア大会に参加しょうと、来年 3月に向け、すぐさま申し込んだ。

閉会式を終え、私たちは真っ直ぐ重慶へ帰った。行きは三段の寝台車、一室に 6人。帰りは、硬座。列車の旅は疲れたが、楽しかった。インスタントラーメンやお菓子などをスーパーで買い込んで列車に乗った。 Yさんのきれいな歌声を聞いたり、トランプをしたり。大会参加のこの日を待ちに待って、私たちは日々を過ごして来たのだった。私はつくづく皆と一緒に行って良かった、と、思った。初め一人で行くことにしていた飛行機代とホテル代が余ったので、中国の人達にとっては大金の寄付が重慶エスペラント界に出来た。

(センター通信 n-ro 241, 2004年11月16日)


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