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42年ぶりに日本で開催された世界エスペラント大会。三度めに日本で世界大会が開催される頃には、私はもう生きてはいないであろう。そんな思いが一つ。もう一つは、国際仏教エスペランチスト連盟(BLE)の事務局長として、さまざまな仏教関連プログラムを大会中に企画してみたい。そんなことで、四日間だけの参加を決めた。NECとしては、出版物を別会場にて販売してもらっていたはずであるが、残念ながらそこを訪れる時間はとれなかった。
一日目 Movada Foiro 70以上の組織がおしあいひしめきあい、テーブルを回る参加者の間をすりぬけるのも困難だ。テーブルの上の見本誌や本をのぞき込む人に声をかけたり、かけられたりして、しかも2時間半立ちっぱなし。ここでまず疲れてしまった。しかし、初めて顔を合わせるBLEのメンバーと親しく話すことができた。BLE副委員長のホセ・ヴェルガラとも初の顔合わせ。しかし彼は今回UEAの幹部会員に選出されたため、「会長の意向によっては副委員長を辞めなくてはならなくなるかも」という。喜ばしいのではあるが、貴重な人材をUEAにとられたくない。
二日目 開会式、Kleriga Lundo打合せ、藤本さんの講演、Faka Forumo、Nacia Vesperoに出た。Nacia Vesperoは、はっきりいって面白くない。ジャポネスクを強調しすぎている。雅楽やら日本舞踊やら、日本人でさえ理解できまい。外国人が単なるエキゾチズムを喜んでいたのは昔の話だろう。Nacia Vesperoの後、既に夜9時ではあったが、BLE幹部会を開いた。時間が遅かったので、早々に切り上げざるを得なかった。
三日目 Kleriga Lundo。企画立案者の趣旨説明によれば、要するに教養講座とのこと。私は、第一ブロックの"aziaj religioj"の中で、儒教、圓仏教、大本教の代表者と共に、仏教について語る。儒教について話をしたソ・ジンスのことは、第一回日韓青年セミナーの参加者として記憶していた。25年ぶりの再会である。さて、ブロックあたり90分の時間のうち、各宗教に割り当てられた時間は15分しかない。30分は質疑応答にあてたい。ソ・ジンスの話ですでに20分が経った。次の番の私は15分で話を終えるため、レジュメを用意してなるべく手際よく話をしようとしたが、やはり20分かかってしまった。次は大本教の奥脇さん。用意してきた原稿を読んでいる。まずい、この調子でいくと彼は30分を使ってしまうだろう。申し訳ないが、ストップを入れさせてもらった。そもそもが90分という時間設定が無理だ。とはいえ、しょせん教養講座である。パネルディスカッションではない。まあ、こんなものだろう。
総持寺半日観光 このコースは、当初私がLKKに提案したものである。その時は、軽い気持ちでいたが、いつのまにか私が責任者になっていた。この観光の目玉は、単なる拝観ではなく、参禅体験である。私は禅宗僧侶ではないので、坐禅については書物の知識でしかないが、それでも、観音のことを"la diino de indulgo"(大会第二報より)と訳されたのでは、たまったものではない。avalokiteŝvaroは専門用語だから観光客向けではないにしても、せめてbodisatvoにしないと。だから、私はコース責任者兼通訳ガイドを引き受けた。しかし、総持寺との折衝は予想以上に難航した。エスペラントに対しての信用がない。{エスペラントなんかで仏教や坐禅の話ができますか?}みたいな不信感があるようだ。日本仏教エスペランチスト連盟(JBLE)の前理事長だった佐村さんが生きていれば、とんとん拍子に話はすすんだのに、と悔しい思いがわいてきた(佐村さんは曹洞宗の中では有力な僧侶だったが、63歳で急逝)。しかし、ともかくもOKが出た。2回催行でのべ80人の参加。まあまあ人気のあるコースだと安心した。
総持寺案内のため、あらかじめJBLEではメーリングリストに4人が参加して、共同で拝観ガイドを作成していた。また、坐禅の仕方・作法についても図解入りで説明してある。このエスペラント版ガイドを参加者すべてに渡すつもりである。これを読めば何とかなるはずだ。種本は「総持寺拝観案内」。英語版もある。私に元気があったら、かつて仏典童話翻訳のために東本願寺と交渉したように、総持寺まで出かけていって、エスペラント訳作成のための許可を受けるのだが、もはやエネルギーがない。厳密には版権侵害だが、まさか訴えないだろう、とたかをくくることにした。(あとで、案内僧から「エスペラント版のガイドを資料として下さい」と頼まれたので、「どうか上層部には内密に」と言って渡しておいた。)
決行当日 私自身一度も行ったことのない総持寺(helpantoには下見をしてもらっていた)。不安を抱えながらバスが出発した。車イスの女性が一人いる。想定外だった。添乗員が電話して椅子を用意してくれることになった。とりあえず、バスの中でも諸堂拝観でも、私は通訳ガイドとしてまあまあの出来だったと自負した。さて、参禅体験である。ここで、私の不安が的中した。外国人は(日本人も)脚をちゃんと組めない。結跏趺坐はもちろん、半跏趺坐も、正座も、あぐらもだめ。何人かは、脚を前に投げ出している。直堂(道場の指導僧)はあきれているに違いない。もちろん口にはしないが。さて、坐禅を組ませながら、直堂が注意をあたえる。「あごを引いて!」...{あご??しまった、単語を忘れた!!}「あごってエスペラントでなんでしたっけ?」と、思わず口に出してしまった。これでは通訳失格である。数名の日本人参加者は誰も答えてくれない。私は帰りのバスの中で、謝った。誰かが、「いやあ、すばらしい通訳でしたね」と言ってくれたが、私はあごを忘れていたのが悔しかった。こういうときは、「斜め下45度を見るようにして」とでも言い換えればよい、と気づいたが後の祭りだ。
晩餐会 せっかくの晩餐会だから大枚はたいたのに...アルコールはドライビールだけ。食べ物はあっというまになくなった。一皿目に前菜メニューをとって、二皿目で主菜を取りに行こうとしたら、もはや料理が無い!晩餐会で何が悲しくてカレーやカツ丼を食べなくてはならないのか。給仕が空いた皿をさげに来るが、そんなこと、超のつく高級ホテルでしかしないサービスだろう。人件費にかけるのを食べ物に回してほしかった。ベジタリアンは更に悲惨だった。ベジタリアン用の料理を別にしてないので、彼らのための料理をノンベジタリアンが容赦なく取っていく。私の目の前のベジタリアンは空しくお茶をすすっていた。となりのインターコンチネンタルホテルのブッフェなら、ほぼ同じ料金ではるかに充実したメニューである。両隣の外国人は文句を言わないが、私は彼らに申し訳ない思いでいっぱいだった。9500円払ったが、実質1500円以下の内容だった。横浜というところは物価が高いのだろうか。セルフサービスのレストランで、小さなホットドックが600円するのは驚きだ。だから私はたいていコンビニで飯を買っていた。
四日目 総持寺観光2回目の催行である。前日の失敗を繰り返さぬため、辞書であご=mentonoを思いだし、バスでは、坐る自信のない人を調べて総持寺には椅子を10脚用意してもらった(椅子禅というのはちゃんとあるのだ)。{昨日と同じだし、今日は楽勝!}と思っていたら、案内僧が昨日と違う。説明が短い。しかも拝観順路をショートカットしている。坐禅の仕方の説明もあまりしない。{せっかくあごを覚え直したのに...}それに今日はなんだか愛想がない。昨日の参加者にあきれた結果なのかと思ったが、どうやら今日は大きな法要があるらしく、忙しいからかも知れない。おかげで昨日はとれなかった自由時間ができてよかったとはいえ、猛暑の中、境内を歩き回る元気のある人ばかりではないので、良し悪しである。
通訳ガイドをして思ったこと。一般的な傾向として、観光に参加する人のエスペラントのレベルは高くない。というか、あまりエスペラントが分からないので観光に参加するのだろう。私はバスの中では、なるべくゆっくり話すことを心がけた。それにしても、エスペラントがほとんど通じない参加者もいる。数字が正しく言えない。これじゃあ、私がいくら忠実な通訳をしても、禅堂で脚を投げ出してしまう人が出てくるわけだ。総持寺の当初の不信感は2、3割は正しかったといえなくもない。
仏教分科会 時間枠45分で、いちばん小さな部屋を注文しておいた。何しろ部屋をとるのは高いのだ。これでも80ユーロ。赤字続きのBLEとしては、これで精いっぱい。ここで、私は司会者であると同時に講演者でもあり、「日本仏教の歴史」について話す。奥脇さんのように原稿を用意してはいたが、原稿を読んでいると、聴衆の反応が分からない、という決定的な問題がある。話したいことはたくさんあるが、私の持ち時間はまたしても15分だ。昨日のKleriga Lundoの倍速で話す。私は今まで、外国人エスペランチストの話が速すぎる、と思っていたが、いざとなると自分がそれと同じようなしゃべり方になったことに気がついた。大会4日目でもあり、慣れてきたというのもある。さて、質問の時間。アリーチャ・サカグチの質問は何とか答えた(と思う)。次の質問は、ソ・ギルスから。ソ・ジンスの兄であり、第一回日韓青年セミナーではベテラン格で参加し、私は彼にやりこめられた苦い思い出がある。「日本仏教の特徴は何か、他のアジアとどういう点で違うのか」と、しつこい。{知るもんか!}「私はそれらの国の仏教をよく知っているわけではないし、私は歴史の話をしたので、共時的な問題にふれるつもりはない」と逃げにかかったが、なおも追及される。{私はあなたのゼミの学生じゃないんですけど...}まあ、時間切れということでうやむやに。そしてここでも時間不足。BLE委員長のグンナ・ゲルモの話は15分を予定していたが10分に短縮、他の幹部のビル・マックに至っては3分に短縮せざるをえなかった。
仏教徒交流集会 これは大会とは別に、私が独自に企画したものだ。世界大会ではクリスチャンのための共同礼拝式というものがある。それと同じようなことをしたいと思った。ただし、LKKもUEAもそのために尽力はしてくれまい。大会プログラムに加えてくれもしないだろう。大会の外で自分で企画し自分で宣伝しなくてはならない。私は自分が所属する真宗大谷派の横浜別院を会場として予約しておいた。仏教分科会で参加者を募ったので、例のアリーチャやソ・ギルスも参加してくれることになった。8か国から11人の参加を得て、いざ横浜別院へ。ここで予想以上に時間がかかってしまった。何しろ歩く時間が長いし、道もよく知らない。猛暑である。アリーチャはみちみち、いろいろなことを質問してくる。彼女は国際語学の教授だが、宗教哲学のようなことも教えているらしく、質問もいきおいその方面に片寄ってくる。私も好きなテーマではあるが、なにしろ暑くて歩き疲れているところに難しい質問をされるので、頭が爆発しそうになる。
別院到着 本当は休憩したかったが、到着が予定より遅くなってしまった。別院輪番(一般寺院でいうところの住職)と挨拶を交わし、即座に本堂で勤行へ。この日のために、エスペラント訳経典のテキストを用意してある。上座部経典についてはグンナ・ゲルモが、大乗系の嘆仏偈については私が導師を勤めた。ところどころ、とちってしまった。もっと練習しておくべきだった。しかし、エスペラントでもちゃんと法要はできるのだと、エスペランチストにも輪番さんにも示せた意義は大きい。この後、部屋を移動して、浄土真宗についてのレクチャを受けることになっている。事前に、「別院スタッフのどなたかにレクチャをお願いします」と頼んでおいたら、輪番自身が話して下さるという。どうやら、別院とはいえ、スタッフといっても事務の女性と法務スタッフが一人か二人の小さな寺のようだ。私の近くの名古屋別院だと50人からのスタッフがいるので、イメージが違った。しかし、こういう企画をやらせてもらうのには、めんどうくさい手続きがいらないので、かえっていい。
輪番のはじめの言葉 「みなさん世界エスペラント大会の参加者ということで、遠いところからようこそ。実は、私の義理の伯父がエスペランチストでありまして、大宰というのですが...」{え、大宰不二丸先生(JBLE二代目理事長)のことでは!ああ、それで待遇がよかったのか}こんな次第で、私が通訳しながら、輪番の講義が続いた。いちおう、自分の宗旨のことだから、輪番の話のたいていは通訳困難ではない。とはいえ、専門用語が続出したり、通訳の私にお構いなしに切れ目なく話されると、かなりの箇所で端折ってしまったりもしたのだが。約1時間半の講義と座談。最後にアリーチャが「よく分かった」と言ってくれたのが嬉しかった。そして何よりも、自分自身が鍛えられたと感じた。
四日間はあっという間に過ぎ、心地よい疲労を感じながら帰路についた。
Unu el la chefaj celoj de chifoja partopreno en UK (fakte por mi la unuafoja reala partopreno) estis prezenti jhongladon en Internacia Arta Vespero, kiu okazos en la antauvespero de la fermo.
Mi jam praktikas unicikladon kelkjare kaj ech prezentis okarinan ludadon pendolumante unicikle en la lastjara Japana Kongreso en Okayama. Sed chifoje por UK mi intencis pli buntigi mian prezentadon kun nove akirita arto jhonglado.
Mi do portis kaj uniciklon kaj jhonglajn ilojn: pilkojn, jhonglajn bastonojn (tiujn long-botel-formajn) kaj jhonglajn ringojn, kaj cigarskatolojn. Cetere mi portis ankau kostumon klaunan.
Tuj post atingo de Yokahamo mi komencis la ekzercadon. Jhonglado ne elektas lokon. Kie ajn oni povas jhongli, surstrate, en chambro, ech piedirante au unicikle pedalante.
Antau la prezento tiuj kiuj volas prezenti devas sin turni al reghisorino por testo. Mi iris al tiucela chambro kaj oni disdonis formulojn por plenumi: nomo, speco de prezento, muzikilo, tempdauro ... Inter elektebloj de speco estas kanto, danco, deklamado, sed nenia akrobatajho. Chu jhonglado ne estas arto?
Mi tamen havis plenan memfidon akceptighi kiel jhongla prezentonto, kaj sen hezito enskribis vorton jhonglado. Mi aldonis vorton okarino kiel muzikilo.
Post la plenumo de formulo oni lauvice ricevis teston. Kelkaj prezentontoj trapasis nur per deklaro ke li jam prezentis en antauaj UK-oj. Sed por tiuj kiuj unuafoje provas devas reale testighi antau la reghisorino.
En mia vico shi diris ke ne estas cirko, kaj donis al mi shancon montri okarinan ludon, stare. Char mi konsideris okarinon nur kiel flankajho de unicikla prezento, mi tute ne atendis ion tian. Embarasite mi provis kelkajn pecojn mikse parkere, sen sufiche da lerto. Post konsiligho kaj decido pri ludotaj pecoj, shi fine diris ke mi devos ekzerci ilin dume, kaj se mi ludos same fushe en la fina provludo, shi ne prenos min.
Char mi ofendighis ke shi ech ne vidis mian akrobatajhon, mi lasis okarinon kaj anstataue daure jhongladis la postajn tagojn por eventualo ke eble iel ankorau restas shanco prezenti akrobatajhon en la vespero: mi estas komencanto kaj chiukaze faras ekzercon chiutage.
Tiel pasis tagoj kaj venis la horo de provludo. Chio estas provita lau la reala sekvo kun la teknikistaro. Ankau la ludontoj devas vestighi per la reala kostumo. Char mi preparis nur la kostumon de klauno, mi demandis chu mi klaune vestighu au ne. La reghisorino preferis la klaunan veston. Sed en la kompleto estas ankau hezitige okulfrapa dukorno-chapo kaj rugha nazo sponga. Kompreneble la nazo estas tro komika malkonvena. Char mi apenau ekzercighis dume en okarino, mia provludo neniel estis kontentiga. Tamen la reghisorino diris nenion kontrau.
Post kelkaj horoj mi jam sidis en la vico de prezentontoj, sen sufiche da prepara ekzerco, kaj atendis la komencon de la Vespero. Anstatau la hontiga klaunchapo, mi surmetis mian chiam-portan kapveston tiel ke unu fino pendas flanke kvazau noktchapo, kio estis kontentige konvena al okarinado.
Post komenco de la Vespero, en la unua vico de auskultantaro mi sidis jam pentante ke mi ne multe ekzercis dume, Kvankam la pecoj estas miaj amataj chevaletoj sed chi-vespere ne estas kutima loko. Tamen lamentado neniel helpis! Mi devis atendi mian vicon silente. Maksimume mi palpe fingrumis okarinon sen sona kontrolo. Mia koro batis kaj mia menso komencis paniki. Mi perdis memfidon, memfidon sen-erare prezenti. Chu mi sukcesos senerare au farighos ridindulo antau la internacia publiko? Ghuste en la kulmino de la plej granda evento esperantista, kaj farighos vera klauno?
Venis mia vico. Mi devas. Devas alfronti chian sekvon, chu gloran au mizeran. Mi alpashis la lokon destinitan kaj staris kaj rigardis. Mi unuan fojon vidis de tiu chi flanko la audantaron planan. Mi jam ne povas forkuri. Mi pozis aplombon. Jhetighis fokusa lumo super min, nur min. Mi vidas nenion. Nenion krom lumon. Chiuj okuloj rigardas min. Mi komencis la pecon Akatonbo. Plenpulme kaj senhezite. Jam ne helpas hezito. Se hezitos, fushighos. Post kelkaj sekundoj finighis mia unua peco kvazau torturo, sed sen problemo. Mi sukcesis! Falis peza shtono el la koro kaj elvershighis ghojo. Dekstre mia kun-prezentanto ludis sian prezentajhon. Sed post kelkaj minutoj mi devos prezenti ankorau alian pecon. Mi atendis la du kun-prezentantojn stare. Unu fajfado kun manoj, la alia fajfado kun folio. Mi atende auskultis, au ghusta-dire nur audis ilian prezenton. Mia menso vagis aliloke. Tuj sekvos mia dua peco La Granda Horlogho.
Post minutoj nia triopa amatoreska prezentado finighis, kun aplaudado kaj sen granda problemo. Verdire mi unu fojon eraris en la dua peco, sed ne panikis kaj flike reprenis aplombe la ludritmon. Kion fari se ne fliki. Mi estus tuj perdita. Eble nur manpleno da homoj rimarkis la eraron. Au almenau mi esperas tiel...
Mia prezentado iel tiel finighis. Mia unuafoja UK finighis. Se mi ne estus esperantisto, mi neniel povus prezenti ion en tiu prestigha halo Minato Mirai antau plnena publiko. Mia multfaceta, bunta eventplena Yokohamo finighis. Ghi restos en mia memoro kiel karmemora mejlshtono por eterne.
私は、ヘルパントとしてお手伝いすることに登録したところ、「総合案内」の副担当としての役割をいただきました。LKKの担当責任者の石川智恵子さんが大会直後に開催される ILEI の責任者を兼ねておられて超多忙なため、現場の運営を引き受けることにしました。
「総合案内」の役割は、「大会参加者に会場内外の必要な情報を提供すること(観光案内はしない)」で、これに、“Rendevua Tabulo”(参加者同士の個人情報交換掲示板)と遺失物・拾得物の取り扱いが加わりました。この仕事に対して朝9時から18時までを3人ずつ3交代の体制をとりました。
いざ準備に入ったとき、大会責任者のクレイさんから「混雑を避けるために」、案内は受付と同じ5階に、RTは4階にと指示されました。これでは、3人体制では難しいことは分かりましたが、もっと重大な問題に奔走している彼を煩わせるのを止めて、何とか対応することにしました。
プログラムについてはKon-gresa Libro の使い方から説明し、会場が5か所とミサのための教会の場所を尋ねる質問、換金、国際電話の場所や安い食堂などの問い合わせに加えて提案やら苦情も含めていろいろ窓口がにぎわいました。観光案内もありました。RTも延べ、約500人が利用しました。遺失物・拾得物については、斎木彰さんが、ほとんどかかりきりで処理してくれましたので、助かりましたが、これも予想以上に多くありました。
担当の役割を最優先することを初めから覚悟していましたが、夕方18時以降の番組以外には、ほとんど出られませんでした。しかし、担当時間を超過したり、交代で食事を取る間も無く詰めている人がコンビニで弁当を買ってきてくださったり、一緒に仕事をする仲間としての連帯感に支えられて、お客様からは感謝の言葉をいただいたり、多くの知り合いの方々と会えましたし、番組(すばらしい内容と評価されていたので惜しかったが)に出席することとは別の体験ができたので、UK横浜に満足しています。
今回の活動について、現役時代に職場の新入社員にいつも話していた「信頼感」(顧客、上司、同僚、後輩など関係者の期待に応えたか)と「達成感」(全力を尽くし、かつ、結果がよかったときに得られる満足度)から評価してみるとどうでしょうか。いろいろな反省事項も多く、どちらも甘くして60点が取れたでしょうか。
JEIの「アジア招待委員会」が発足し、UKにアジアから23名を招待することが決まったことを知ったときは、私たちがそのprizorgantoとして協力しようとは何も考えていませんでした。大会では helpanto として何かをしたいと思いその登録はしてあったので、そちらのことだけに集中することにしていました。
しかし、その23名の内に、まだ引受人のいない人が数人いると聞き、その数人の中に私たちの知っているベトナムのNga(ニャー)さんの妹さんという人に目が留り、3月になってからその人を引き受けようと申し出ました。そしてベトナムのNguyet(グエット)さんの prizorganto になることにしました。
私たちの主な仕事は彼女のために書類をそろえて日本滞在の「ビザを取れるようにする」ことでした。メールでやりとりして受け入れ時の「滞在予定表」を作りました(8月3日から20日)。「招へい理由書」「身元保証書」「滞在予定書」世界エスペラント大会のパンフレットなども用意して、JEIが各招待者に送りました。
7月になってやっとNguyet さんから、「ビザが取れた」という知らせが来て一安心でした。その間、彼女はハノイでのIJK 青年大会の実行委員の仕事があったり、就職先を代わる準備があり、新しい職場で長い休暇が貰らえるかが心配でした。メールの返信は私たちの感覚とは違いゆっくりペースで、豊橋にいるお姉さんを通して催促したりしました。最終的には、ビザが取れて招待できたのは20人でした。
8月4日、大会会場で初めてNguyetさんに会いました。
お互いに写真をメールで送ってありましたのですぐに見つけることができました。とてもかわいい人で、お姉さんのNgaさんにそっくり!日本滞在中の保険の手続きをして、大会中には「Azia Agado KAEM」の分科会に出ることが義務づけられていました。
アジアからの招待者たちは、大会会場がお休みなる水曜日は“Tuttaga ekskurso” でしたが、この日には早稲田のJEIのエスペラント会館を訪問したそうです。彼らにとっての一日遠足になりました。
JEIでは、彼らの raportojを “La Revuo Orienta” に載せるそうですので、Nguyetさんの文も載るでしょう。彼女が世界大会をどのように体験したのか、東海地方のエスペラント会での交流で何を感じたかを知ることができると思います。
では、Nguyet さんの滞在を日程順に書きます。
8/11(土) 夕方、横浜から新幹線で名古屋へ。山田宅泊。
8/12(日) 私たちと中京聖泉キリスト教会の礼拝に出席、礼拝後中高生に英語でエスペラントのかたことを教えた。
午後、豊田の黒柳さん宅を訪問、お姉さんのNga夫妻も来ておられました。この日Nguyetさんはお姉さん夫妻と黒柳さん宅に泊まる。
8/13(月) 夕方、犬山へ車で。犬山城を観光して6時から後藤さん宅で開かれたSONKISOJの交流会と夕食会に出席。ここでは、Nguyetさん、モンゴルからDagvaさん、ブルガリアからVladmir Ivanov Popovさんも同席し、手作りの和食を一緒にいただきながら交流。12人が出席。山田宅泊。
8/14(火) 名古屋観光。名鉄電車、名古屋地下鉄を利用して山田義と名古屋水族館を回り、あとで観覧車を楽しみました。着物を試着したり琴を練習したりしました。山田宅泊。
8/15(水) シマ子と岡崎へ。米川五郎さんご夫妻が招待してくださった。岡崎城は耐震工事のため見学できず、「三河武士の館」を見学した後に岡崎グランドホテルで昼食に招待していただきました。6時から東区の名古屋エスペラントセンターの歓迎会に出席【表紙写真】。11人。習いたての琴で「さくらさくら」を弾いたり、Ora Libroに記念の署名を書き込んだりしました。山田宅泊。
8/16~17(木・金) 八ヶ岳エスペラント館でĈambro Ĉarmaの例会に合流しました。ベトナム人4人と当日宿泊していたフランス人blindulo、イタリア人2人も加わって11人の会合でした。16日はエスペラント館泊、17日は山田宅泊。
8/18~20(土・日) 名鉄電車で豊橋までシマ子が送って行き、そこに住んでいるお姉さんのNgaさんに渡しました。(Ngaさん宅へ泊まる)
8/20(月) お姉さん夫妻が車でセントレアまで送ってこられ、11時、中部国際空港からハノイへ帰国しました。
彼女とはエスペラントで機転の利いた楽しい会話が弾んだし、食事の準備や後片づけなども気楽に手伝ってくれました。お皿洗いは自分の仕事だ、と決めていたようです。娘が帰ってきてくれたような楽しい日々でした。お茶目でかわいいのですが、おっちょこちょいのところもあって大事なポシェットを犬山の後藤さん宅に忘れて来たのを思い出し、30分も走った名古屋高速をまた戻ることになったりしましたが...。若いって、ほんとうに素晴らしい!ベトナムの若い人たちに出会って、自分の若かった時代のことを思い出しました。礼儀正しく思いやりがあって、年上の人を敬うということが身に付いていました。日本人が忘れてしまった大切なものを彼女たちの中に感じました。もちろん、現代っ子での面もありましたが。この人を迎えてからは私たちのベトナムについての興味と感覚がより深く新しいものになりました。
この招待事業をきっかけにアジアのエスペラント運動が若い人たちとともに発展していくことを希望します。帰国後Nguyet (Luno) から来たメールを載せておきます。
Karega Sinjoro Jamada kaj Sinjorino Ŝimako
Kiel vi fartas? Cxu la vetero tie estas malpli varma?. Mi sopiras vin multe. Mi havis multe da tagoj kio estas memoriaĵo por mi. Dankas al Esperanto, mi havis ŝancon partopreni en la UK en Japanio, renkontiĝis kun Esperantistoj, havas multajn spertojn, plie mi rekontiĝis kun vi.
Vi estas tre bonkora por mi. Vi konsideras min kiel via filino. Mi pensas mi estas la plej feliĉulo unu el invititoj. Mi dankas al vi multe. Mi diris multe pri vi kun miaj gepatroj. Mi sendis al ili vian saluton. Ili volas danki vin kaj renkonti vin. Mi sendos al vi multe ĉirkaŭprenojn kaj kisetojn.
Via Luno.
Antaŭ du jaroj en Vilno oni anoncis okazigon de la 92-a UK 2007 en Jokohamo. Mi memoras, ke tie mi aplaŭdis kun multaj kongresanoj el Japanio ĝoje kaj streĉe.
En Vilno mi ĉeestis en la Ekumena Diservo en la granda katolika preĝejo de St.Rafaelo apud la kongresejo. Mi ne estas katoliko kaj mi neniam antaŭe partoprenis meson de katolika preĝejo. La situo en la domo kun alta plafono, kun orgeno kaj kun longaj benkoj estis tute alia ol kiel la situo en mia kutima protestanta preĝejo en Japanio. Kunsidantoj estis multaj kaj celebrantoj estis triope. Ni ne havis okazon nin prezenti aŭ paroli kun pastro aŭ pastoro kaj kun alilandaj kristanoj.
En la lasta jaro LKK-anoj el Jokohamo iris al la UK en Florenco.S-ro Suzuki Keiitiro estas membro de Esperanto Rondo de Jokohamo kaj unu el la komitatanoj. En Florenco li, kristano- esperantisto ĉeestis en la kunveno de IKUE kaj KELI. Li traktis kun pastro kaj aliaj personoj pri la Diservo dum la UK. S-ro Suzuki prezentis nome la preĝejon Jokohama Ŝiro-Kjoŭkaj, situantan proksime de la Kongresejo Pacifiko-Jokohama. En Jokohamo li kaj aliaj kristanoj kelkfoje vizitis la preĝejon, ili rakontis pri Esperanto kaj pri la UK en 2007. Ili petis, ke la preĝejo permesu uzi ejojn por la Ekumena Diservo. Pastoro Huzikaki kaj la konsilantaro konvinkiĝis pri graveco de Esperanto kaj Ekumena Diservo. La preĝejo, konstruita el ŝtonoj, havas sufiĉe longan historion. La orgenistino Toŭda konsentis orgenludi la tutan programon dum Diservo.
En junio s-ro Clay Magalhaes, Konstanta Kongresa Sekretario de UEA, vizitis Jokohamon por akceli preparlaborojn de la Kongreso. S-ro Suzuki prezentis al li la preĝejon kaj la pastoron. Oni decidis, ke la preĝejo estas konvena, por ke ni preĝu por la sukceso kaj gardo dum la semajno de la UK.
Kelkajn semajnojn antaŭ la UK-Jokohamo la pastro Bernhard Eichkorn el Germanio skribis al mi retleteron, kunmetinte la programon de Diservo en du paĝoj de formo A4, por ke mi multobligu ĝin por la kunsidantoj en la Ekumena Diservo. Mi mem decidis prepari la programon dulingvan: en Esperanto kaj aldone en la japana. Ne-esperantistoj kristanoj deziris kunsidi Diservon. Dulingva teksto estis bone komprenebla por ĉiuj ĉeestantoj kaj raportistoj de kristanaj ĵurnaloj, kiujn mi petis kunsidi.
Ni, japanaj kristanoj, interkonsentis konduki la celebronton prĝejen sabate antaŭ la Diservo por konatigi al li la domon, katedron, mikrofonon kaj orgenon.
Ni renkontiĝis en la Kongresejo. S-roj Eichkorn kaj Taĵima Norio gvidis nin preĝejen per subtera trajno kaj laŭ subsuna vojo. En la kunvenejo la celebronto klarigis la ordon de Diservo al la pastoroj kaj orgenistino. La vortoj "Kyrie-Litanio", "Glorkanto", "Kyrie eleiso"“ (Sinjoro, kompatu nin) estis fremdaj por mi. Oni ekzercis kantojn ĉe la orgeno. Demandoj kaj respondoj daŭris dum la tuta somera posttagmezo. La vortoj de la pastro "Paroli estas malfacile, sed interpreti estas plimalfacile" konsolis min. Estis konsentita nia propono monkolekti kaj oferi al la preĝejo kaj al orgenistino.
Dimanĉe posttagmeze ĉirkaŭ 80 homoj kunsidis, preĝis kaj kantis himnojn. La Ekumena Diservo, organizita de IKUE kaj KELI estas unu el la oficialaj programeroj de la UK.
(センター通信 n-ro 254, 2007年10月4日)