通信より

ハン・イさんとの1週間

山田義

10日間ほどのペキン世界大会には、だれか、中国人エスペランティストと知り合いになりたいと思って出かけた。大会会場ではワイワイとやっているが、突然ひとりになってしまうことがある。そんなときだれかに話しかけたくなるものだ。最初の日、会場の入り口で50歳くらいの中国人に私のデジカメのボタンを押してくれるように頼んだ。首に下げた大会参加証には Han Yiとあった。漢字の表記を書いてもらうと「義」と書いてYi だという。私と同名だ。滅多に会ううことのない同名の人が、中国人エスペランティストにいたのだ。親しくなった彼の北京大会のことを書いてみよう。

大会プログラムに空いた日があり、タクシーやバスで個人遠足をしてみたいと思った。北京の地図も買って有名な観光地、頤和園(いわえん)Somera Palaco へ行くことにしていた。ひとりで行くより、エスペラントを話す中国人と行きたい。3日目の午前中会場内であのハン・イさんを見つけた。二人で遠足に行かないかというとOKという返事だ。

20分くらいのタクシーで話をしながら、皇帝の妻の夏の保養地に着いた。広い湖には、小さな島に橋が渡っているのが見える。船も浮かんでいる。観光客は多い。個人遠足だから人気のない木陰で時間を気にせず話し込むこともできた。彼の口から日本の古いエスペランティストの名前が出てくる。彼の中国読みの人名は理解できないが漢字で書いて梅田さんや由比さんの話題が続いた。給料の話、家族の話が続く。顔だけえぐられた仏塔の日陰で、「紅衛兵の仕業であり、それは毛沢東の失敗だった」という話をしてくれた。

売店でペットボトルの水を買った。暑さをしのいで飲んでほっとしたとき、景色を撮したいと思った。手元にカメラを持っていない。肩からかけたkongresa sako の中を探したが見あたらない。売店まで戻ったが不明だ。最後に彼は、「これだけの大勢の人に尋ねることもできないですよ」とあきらめるように私をさとした。昨夜のバンケードでみんなで一緒にカメラに納まったエストニアの女性の写真もソニーのデジカメのメモリとともに消えてしまった。彼は気を利かして、自分の古びた粗末なカメラを取り出して、そびえる建物を背景に私を撮ってくれた。数日後夕食を食べに会場の外を歩いていると町から戻ってきた彼が写真を差し出した。あのとき撮ったものを早速プリントして私に渡してくれたのだ。

エスペラント版中国全図をLibro Servo で見つけて買った。中国語の地名を聞いても理解できない私にはこの全国地図が役立った。ハン・イさんのお国はペキンからは北東で、朝鮮半島の付け根の辺りであることが分かった。これを手にして、彼と彼の友人の説明を聞きながら、大会会場でのエスペラントによる中国展を一巡できた。地図を広げ指さしながら、観光ポスターの前で誇らしげに景色や文物を説明してもらい私も満足だった。パソコンの大型プリンターで出力した大型のパネル写真には漢字とエスペラントで説明が入っている。力のこもったエスペラントによる中国展だった。

 市内では、観光地の路上で物売りが声を掛けてくる。覚えた中国語「不要!」が役に立った。ペキンの観光アルバムも見せられ、買いたくなったが辞めて良かった。翌日大会会場には、エスペラントで書いた立派な写真入りのペキン観光の本がおいてあった。それを買った。エスペラントに懸ける意気込みを感じた。中国から帰ってすぐにサッカーの試合でのもめ事がニュースになっていたが、街の中では不穏なことは何もなかった。ハン・イさんとの一週間ではいやな思い出はない。

(センター通信 n-ro 240, 2004年9月5日)


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