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「お望みならば、私を売国奴とよんでくださってもけっこうです。決しておそれません。他国を侵略するばかりか、罪のない難民の上にこの世の生き地獄を平然と作り出している人たちと同じ国民に属していることのほうを、私はより大きい恥としています。ほんとうの愛国心とは人類の進歩と決して対立するものではありません。」
このように言い切ることのできた長谷川テルは、奈良女高師(現奈良女子大)在学中にエスペラントを学び、退学処分となってからは、エスペラント運動にいよいよ積極的に関わっていった。そして同じエスペランチストであった中国の留学生・劉仁と結婚して中国に渡ってからも、抗日放送への従事と共に、エスペラントによる反戦の呼びかけを日本へ世界へ送り続けた。テルにとって、エスペラントとは何であったのか。
エスペラントの創始者ザメンホフについて、テルは言う。「大国と小国、強国と弱国、すべての民族の平等と独立のため役立つようにと、ザメンホフはエスペラントを創ったのである」と。
テルの言う通り、ザメンホフは単に便利な道具としてエスペラントを提唱したのではない。根底には人類愛やすべての民族の平等という素朴な理想主義があり、それを実現するための中立的な言語がエスペラントであった。排外主義や偏狭な愛国心、少数民族抑圧の不当性を指摘するばかりでなく、 国土は、民族や言語にかかわらず、すべての居住者に平等に所属するというザメンホフの思想<人類人主義>は、当時としてはあまりに先進的でありすぎ、エスペランチストの間でさえ必ずしも広く受け入れられたわけではない。しかし、エスペラント運動の第一線に立っていた人たちに人類人主義者が多かったのも事実で、テルもその一人といえる。
エスペラント作家を志していたテルの文筆の才能は、結果として、“En Ĉinio batalanta”(戦う中国にて)、“Flustr’el uragano”(嵐の中のささやき)の二つの著作集他に発揮されている。
(この文章は、昨年の12月3日に上演された朗読劇『売国奴と呼ばれても』の公演パンフレットに寄稿されたものです。)
(センター通信 n-ro 243, 2005年3月19日)