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読書日記(1) Krokize de mia ĝardeno

Krokize de mia ĝardeno、Istvan Nemere著、Kooperativo de Literatura Foiro、1992年発行

この本の作者のネメレは今いくつになるのだろう。というのも、この短編小説集の大部分がおっさんの視点からえがかれているからである。私もきわめて平凡な人生ながら、40歳を過ぎておっさんになり、いささか疲れてきたし、残りの人生をどう過ごしたらよいのか考えたりもする。で、この本の登場人物たちの感慨も多少はわかるような気がするのである。

本書は、19編の短編、あるいはむしろショートショート、掌編ともいうべき作品を収録したもので、そのなかにはSF風あるいは寓話風のものもあるが、大半は日常のごくささやかな一コマをえがいたものである。カバーストーリーではミニマリズムだとされている。私小説、心境小説の趣もないではない。比較するのが適当かどうかわからないが、最近、たまたま森内俊雄の短編小説集『桜桃』(新潮社)を読んだ。いずれも、読みながら救済ということを考えた。

小説の内容を紹介するのも味気ないけれども、いくつか簡単に触れておこう。 「ヒヨコ」という短編がある。道ばたで1羽のヒヨコがうずくまっているのを見つける。オスなので食用にされるために車で運ばれる途中にたまたま落ちたのである。それを拾って家に持って帰る。妻はそれを見て「アウシュヴィッツへ行く途中で救われたのね」という。鳥小屋に入れる。妻は「マタイ受難曲」を聴いている。夫婦のあいだで、世界中で多くの人が殺され、逮捕され、あるいは餓死していることが話題になる。3日目の朝、ヒヨコの姿が見えない。あの無力なヒヨコが、自らのクチバシで小屋の壁の腐ったところをつついて逃げ出したのだ。散歩に出ると、白い羽が落ちている。キツネが鳥を食べたらしい。それだけの、わずか4ページの、いわば身辺雑記ふうの話であるが、小さな1羽のヒヨコが世界の受難と救済とを暗示する。

あるいは「庭」。父は生前、時間さえあれば庭に出て耕していたが、彼がなぜそれほどまでに庭仕事を好むのか理解できなかった。やがて自分も父親になり、庭が、大地が自分を呼んでいるのを感じるようになる。もうひとつ、「熱病」。やむにやまれぬ情熱に駆られて、あたかも巡礼のように放浪を続ける男の姿に、自由な人間を感じて、思わず涙ぐむ、という話である。いずれもわずか2ページの話である。こうやってあらすじだけ書くと、面白くもなんともないが、仕方ない。

木立ちのなかの田舎家をえがいたセザンヌの絵が表紙を飾っている。大判の判型で活字もゆったりと組まれていて、この点でも中高年向きであろうか。

ところで、いまさら語学の、作文や会話の「お勉強」はしたくない。ボラピュックを論じる社会的意義がどれだけあるであろうか。本についても、エスペラントで書かれているからというだけで、あるいはエスペラントが論じられているからというだけで読む、というのは、マニアか研究者のすることである。それなりの教養と社会的な経験を持ち、しかも時間に追われている大人には、もっと別種の、開かれた本選びの基準があってもいいのではなかろうか。

そんなことを考えながら、これから毎月1冊、読んで面白い本をさがしてみたい。

(センター通信1994年7月号掲載)


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