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エスペラントに関する記事を切り抜いた私の古いスクラップブックに、すでに黄ばんで読みづらくなった1枚の切り抜きがあって、前から気にかかっていた。今、改めて取り出して見ると、1974年4月15日付け毎日新聞夕刊に掲載されたエッセイであるから、もう20年も前のものである。執筆者は高橋裕東大教授(土木工学・当時)。高橋はその文で、明治末期から昭和初期にいたる難工事であった信濃川放水路工事の竣工記念碑(1931年)がエスペラント文で書かれていることを紹介している。具体的にいうと、「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」、「人類ノ為メ 国ノ為メ」云々という日本語の碑文と、それをエスペラントで記した碑文とが刻まれているのだそうである。エスペラントの原文は紹介されていない。
この碑を建てさせたのは、東大工学部を卒業し、内村鑑三門下の無教会派のクリスチャンであった青山士(あきら)で、当時、内務省新潟土木出張所長の職にあった。この記事が心のどこかに引っかかっていて、ときどき思い出すことがあった。信濃川のきらめく川面を見下ろす土手に、碑が立っている風景が幻影のように浮かんだ。しかし、詳細については、追求することを怠ったまま、今日に至った。
最近、たまたま、高崎哲郎『評伝 技師・青山士の生涯』(講談社)と題する本が刊行されたことを新聞で知った。内村門下のクリスチャンの土木技師云々という紹介を読んで、ひょっとしてあの人物のことでは、と思って購入し、一読に及んだ。そうしたら、果たして、20年前の新聞記事で言及されていたあの青山士であった。あるいは彼のことは、すでに知っている人は知っている「偉人」であって、不勉強な私だけが知らなかったのかもしれない。それにしても、20年ぶりに旧知に再会したような気分ではあった。
同書によれば、青山士(1878〜1963)は、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業後直ちに渡米し、ただ一人の日本人として、過酷な熱帯の自然環境と人種差別に耐えながら、パナマ運河の開削工事に関わった。8年間これに従事したのち帰国し、内務省に入省、地方で土木工事に従事し、荒川放水路と信濃川・大河津分水という二大国家プロジェクトを現場で指揮し、完成させた。一度も本省勤務の経験がなかったにもかかわらず、最後は内務省技術官僚の最高位である内務技監に任命されている。晩年は郷里の静岡県磐田市に隠棲した。最後まで内村鑑三門下の無教会主義クリスチャンであった。いかにも誠実にして気骨ある明治生まれのクリスチャンの生涯であった。
彼が活躍した時代においては、土木事業は、自然を克服し操作する近代的自然観に基づく、輝かしい近代の産物であり、直ちに民衆の福利をもたらすものであると信じられていた。これに対して、近年、操作的自然観は、エコロジカルな自然観によって批判されている。公共事業は、肥大化した官僚機構とゼネコンといわれる建設産業の維持拡大のためではないかという疑惑が一般化しつつある。信濃川ならぬ長良川でその事例が見られるのは周知のところである。技術者たちは本当にあの工事が「人類ノ為メ 国ノ為メ」であるという誇りをもって遂行しているのだろうか。それは土木事業が政治に翻弄されているためで、技術者の心意気は今も昔も変わらないのかもしれない。しかし、それでも時代は変わったという思いはやはり禁じ得ない。
さて、最後になったが、肝腎のエスペラントによる碑文であるが、それはこういう文章である。それぞれ、本文冒頭にあげた碑文に対応している。“FELICAJ ESTAS TIUJ KIUJ VIDAS LA VOLON DE DIO EN NATURO”“POR HOMARO KAJ PATRUJO”(なお、もうひとつ青山が彫らせたエスペラント銘板があって、和田嶺トンネルの下諏訪側入口に今も残されている(p172)。文面は同旨である)。
青山自身はエスペランティストではなかったようであるが、この事例は近代日本精神史におけるエスペラントの位置を象徴するようなエピソードではある。著者は、青山がこの碑文を刻ませることによって「軍国主義の坂を転がり落ち始めた軍部当局に間接的抵抗を示したのである」としている(p171)。 この碑は新潟県西蒲原郡分水町の大河津(現大川津)に建っている。一度訪れてみたいものである。
(センター通信1994年9月号掲載)
※ RO1994年6月号“El la Japana Gazetaro”で、『建設業界』(日本土木工業会)4月号に、この碑の写真が掲載されている旨が紹介されている。