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読書日記(3)V.Varankin“Metropoliteno”について

無数の人々がそのために情熱と、ときには生命までもささげた社会主義は、今や完全に過去の存在にすぎなくなった。この事実を前にしつつ、ヴァランキン(1902〜1938) の小説“Metropoliteno” を読むことは苦痛と、いささかの徒労感を伴わないではすまない。われわれは、彼が粛清のただなかで殺されたことを知っている。のみならず、数年前には、彼がその未来を信じた社会主義が終焉し、歴史のゴミ箱のなかに投げ捨てられるのを目のあたりにしたのである。それはそのとおりではあるが、しかし、そうであればこそ、せめて救われない彼を少しでも供養してやりたいものだと思い、この一文を草することとした次第である(以下、引用ページは、後述のProgreso版による)。

もっとも、この小説は、複雑多岐な、重層的な作品であって、読みこなすには大変な労力と知識が必要である。何よりもまず、細部まで読み込むことが必要である。それが出来ていないから、私にはまだこの小説の全体がよく見えたという感じがしない。従って、本稿は、本格的な検討のための、ほんの小さなメモといったものである。

まず、この小説を一読してそこここに感じるのは、同時代の熱気とでもいうべきものである。この作品は、1928年から1929年ごろのモスクワとべルリンが舞台になっている。この後、ソ連では10年を経ずして、スターリンが独裁体制を確立するであろう。ドイツでも、数年後にはヒトラーが権力を握るであろう。そうした将来への予感をはらみつつ、しかし、まだ革命の熱気も残っている。べルリンではバリケードが築かれたりする。ロシア革命からまだわずか10年ほど後の、これは物語なのである。主人公の妻はモスクワの劣悪な住環境のなかで、家事と育児に追われ、ノイローゼ気味で夫婦仲も冷えている(夫婦喧嘩のシーンは身につまされるところもあるが、あまり書くのはよそう)。主人公は、夫婦仲が好転しないまま、地下鉄の建設について調査するため、べルリンに派遣される。そして、そこで若い女性活動家アリスと知り合って恋に落ちる。この小説は、そうした主人公の感情生活をひとつの軸としている。ラブシーンや暴行シーンもあったりする。今から見れば大したものではないが。

と同時に、この小説では、驚くべきほど多様な社会的なテーマが扱われている。まず総体として社会主義建設の間題がある。とりわけタイトルからもうかがえるとおり、都市交通の改善は大きな問題である。ここで地下鉄はいわば社会主義建設の、ソ連の近代化への夢の象徴とでもいうべき存在なのであろう。レ−ニンが「共産主義とは、ソビエト権力と全国の電化である」と言ったとおりである。さらに、モスクワの住宅問題についても、その貧困ぶりが妻の口を通して指摘される。それから、早くもはびこる官僚主義や、官僚による物資の不正な取得、横流しなどの腐敗の問題 (p101)。自力更生か、他の資本主義諸国と連携して経済発展を行うべきかの選択の問題。ネッブによる腐敗も示唆されている。つまり、当時の社会主義建設に伴う諸困難が全編にわたり、かなりあけすけに書いてあるという感じがする。ソ連共産党の党内闘争や当時の政治状況もえがかれている。トロツキーあるいは卜ロツキストという言葉が数箇所に出てくる(p53.101.134.135.138)。55ページで、10月革命を祝うデモの隊列に向かって、とあるビルのバルコニーから演説をしようとする謎めいた人物、「黒い髪をし、幅が狭く、先のとがった短いヒゲをした人物」がチラッと出てくるが、これは、1928年1月にアルマ・アタに追放される直前のトロツキーのように見えないでもない。作者はひそかに共感を寄せていたのであろうか。作中で人をトロッキスト呼ばわりしているのは、官僚主義者として後に糾弾される者たちである。スターリンの名前は、気がついた限りでは一度しか見当たらなかった(p29) 。社会民主主義者、すなわち当時のいわゆる「社会ファシスト」たちが支配するワイマール・ドイツでの労働者の闘争もえがかれている。

さらに、主人公の妻は幼児の教育に関わることによって人間的に成長してゆく。そのプロセスを通して、女性の社会的自立、両性の平等の問題がえがかれている。それらの試練に立ち向かうなかで、頼りなげだった主人公(彼が非党員であるとされているのは象徴的である)は、次第にしっかりした人物、確信ある社会主義者(それが当時の期待される人間類型だったのだ)になってゆく。従って、この小説は一種の社会主義的教養小説といった趣もある。

本書は、小説としては、ストーリーの展開にご都合主義的なところが目立つように感じられる。偶然の出会いがやたらに多すぎるのである。人物の造型にも類型的なところが感じられる。例えば、官僚主義者が、実はかつての白衛軍に加わっていた人物であることが判明するとか (悪人はやっばり悪人だ!)。しかし、同時代にあっては、決してそれはたんなる類型ではなく、それなりにリアリティがあったのであろう。本書は、はじめ1933年にEkrelo から出版され、のち、1977年にTKから復刊され、さらに、1992年にソ連のProgreso から再刊された。オ−ルドが“la nica literatura revuo”の終刊号(1962)に書評を書いている。作者は粛清され、のち名誉回復されたが、最新の資料により彼の生涯を語った本が、1990年にソ連(当時はまだソ連が存在していたのだ)のFenikso から刊行されている(Nikolao Stepanov “La vivo kaj morto de Vladimir Varankin”)。

(センター通信1994年11月号掲載)


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