本と批評

読書日記 書評いろいろ 出版文化

読書日記(4)多田茂治『内なるシベリヤ抑留体験』について

「壁」が崩壊して以来、次から次へと明らかになる社会主義ソ連をめぐる巨大な歴史の暗部には圧倒される。この巨大なマイナスを直視するのは、きわめて大きな精神的エネルギーを消耗する。旧ソ連の強制収容所ひとつ取ってみても、それは1980年代の半ばをすぎて、ゴルバチョフが廃止の命令を下すまで存在していたそうで、実に70年近くにもわたって存続したのである。自国民のみならず、外国人も捕虜も収容された。そうして、彼らはソ連の国内植民地開発、土木事業のために動員されたのである。

日本人兵士のシベリヤ抑留もその一環であるといえよう。50万人の日本人兵士がシベリヤに抑留されたと言われている。その体験者による記録は、2,000点を越えるという。例えば、エスペランティストの高杉一郎(1908〜)は、『極光のかげに』(岩波文庫)、『スターリン体験』(同時代ライブラリー、岩波書店)、『シベリアに眠る日本人』(同)で、シベリヤ抑留問題をしつように追及している。書物ばかりではない。昨秋、愛知県美術館において、画家の香月泰男(1911〜1974)の没後20年を記念して回顧展が開催されたが、香月といえば「シベリヤ・シリーズ」が有名である。

彼もまた、2冬をシベリヤの収容所で過ごした。シベリヤ体験が彼の内面で沈潜し、やがて絵画表現へともたらされるまでには、帰国後、10年の期間を要した。くろぐろとして凍てついたシベリヤの大地から死者が叫んでいるようなそれらの絵は、見る者を底無しの空間へ落とし込むかのようである。

さて、ここで紹介する多田茂治『内なるシベリヤ抑留体験』については、峰芳隆さんからその刊行を教えられた。本書で論じられているのは、シベリヤに抑留された3人の兵士にして知識人である。すなわち、石原吉郎(1915〜1977)、鹿野武一(1918〜1955)、菅季治(1917〜1950)である。シベリヤ抑留中の過酷な体験はもとより、彼らがシベリヤに抑留されるまでの人生、そして帰国後の軌跡がたどられている。菅は、帰国後わずか半年で、いわゆる徳田要請問題をめぐる政争に巻き込まれ、鉄道自殺した。鹿野も、帰国後1年余りで、精神と身体を酷使のあげく、心臓麻痺で死んだ。石原は帰国後22年を生き延びたが、晩年は夫人が精神を病んだせいもあり、無惨なものであった。幾度も自殺を企てている。

それにしても、「収容所列島」ソ連で、収容された人数が何千万だとか、そのうち死亡した者が数百万だとかいわれ、犠牲者が数に還元されるとき、個人を問題にしても、むなしさを感じざるを得ない。とはいえ、しかし、それを体験した人間にとっては、彼の人生に消しがたい刻印を残した出来事であるには違いないのである。

 収容所生活をかろうじて生き延びた人間にとって、その災厄をもたらした巨大なもの、つまりソ連社会主義体制というものは、巨大すぎてこれを直視することはできないのであろうか。個人の局限されたいわば実存的な体験がすべてなのであろうか。石原の『望郷と海』(ちくま文庫)を読んでみても、ひたすら自己の内の荒涼とした風景のみを凝視し続けるその姿勢に触れて、見通しのつかない息苦しさに襲われるのは否めない。もちろん、過酷きわまりない体験が徹底的な政治不信をもたらしたことは、本人の言うとおりではあろうが(p215)。

本書も、3人の内面に内在しようとしている。それはそれでいいが、その体験の重みに圧倒されてか、ソ連社会主義に対する批判的、歴史的な視点が稀薄であるように感じられる。個人の内面は内面だけで自立しているわけではない。内をえがき切るためにも、著者はもっと外との関わりを論じるべきであったと思う。スターリンを「阿呆な支配者」だといっただけで済むものではあるまい(p 88)。

ところで、本書を取り上げたのはほかでもない、本書にはエスペラントがしばしば登場するからである。暗澹たるシベリヤの光景のなかでエスペラントが話題にされるのは、何かしら心が休まる感じがする。『望郷と海』で言及され、本書でも紹介されているが、収容所で、鹿野がエスペランティストであることを知った菅の依頼により、鹿野が菅ひとりを前に、エスペラントの入門講習会をする情景などはとても美しい。第一次大戦後のシベリヤにおけるバギーを思い出す。ただ、石原がシベリヤ体験を経て、戦後、エスペラント運動に関わりを持ったという形跡はないようである。

また、本書によれば、石原は東京外語時代にエスペラントに関心を持ち、PEUの残党と会合を持ったそうである(p 56)。鹿野は京都一中時代に、カニヤ書店でエスペラントを学んだ。カニヤ書店は、全文エスペラントの雑誌『テンポ』を1934年から1940年まで発行していたところである。1982年に名古屋エスペラントセンター出版会が同誌を復刻した。ただ、『テンポ』にからんで鹿野の名前を見た覚えはない。エスペラントで知り合った南禅寺の柴山全慶師のもとに参禅に通ったこともあるという(p 48)。石原と鹿野は、帰国後もエスペラントの手紙をやりとりしたりしている。

なお、本書におけるエスペラント関係の記述は、不正確なところがある。「ラザロ・マルコウィッチ・ザメンホフ」(p 20)とあったり、「Tra mondo iras forta voko」(p 51)といった具合である。

(センター通信1995年3月号掲載)


2000年2月に、同じ著者による『石原吉郎「昭和」の旅』が、作品社から刊行された。本書は、前著刊行後の新たな知見を踏まえて、いっそう詳細に石原の人生をたどったものである。前著とあわせて読まれれば、シベリアでの体験がいかに彼の人生にとって過酷な重荷であったかが了解されるであろう。

ところで、本書では、石原のエスペラントとの関わりについては、ほとんど前著での記述が繰り返されている。今となっては、もはやそれ以上の関わりを裏付ける資料は発見されないのかもしれない。

気になったのは、帰国後に石原が鹿野にあてて、ときどき、エスペラントで手紙を書いていたというくだりである(p160)。本書には1通しか引用されていないが、「ときどき」とあるからには、それ以外にも残っているのであろうか。石原吉郎全集に収録されているのかもしれないが、今のところ怠慢で調べていない。

それから、その手紙を日本語に訳しているのは加茂セツ子という方であるが、この方については、前著の「あとがき」で、協力者のひとりで「エスペランチストの友人」だと記されている。この方については、これまで名前を聞いたことがないので、どういう方か知りたい気もする。こちらの疑問も、著者に尋ねれば氷解することであろうが、それも相変わらず怠慢でやっていない。(追記・2001年1月2日)


←前を読む | →次を読む | ↑目次へ