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読書日記(16)Kalle Kniivilä “Krimeo estas nia-Reveno de la Imperio”(Mondial, 2015)

2014年3月16日、ウクライナの一部であったクリミア自治共和国とセヴァストポリ特別市で住民投票が行われ、圧倒的多数(公式発表では97%!)の賛成によりロシア編入が支持され、18日にはプーチンがロシアへの編入を発表した。編入はロシアでは熱狂的に支持され、プーチンの支持率は跳ね上がり、「クリミアはわれわれのもの」は流行語ナンバーワンになった。他方で、欧米諸国からは力による領土拡大だとして非難を浴び、ロシアへの経済制裁が行われ、G8からも事実上追放された。また、東ウクライナでは政府軍と親ロシア派との戦闘がなお続いている。この大事件を市民へのインタビューを中心に追求したのが本書である。

著者はフィンランド人のジャーナリスト。前著Homoj de Putin(2014)では、プーチンの高い支持率の原因をさぐるため、ロシア市民にインタビューを重ねた。同書刊行後、クリミア事件に絞ってさらに取材を重ねて刊行されたのが本書である。

著者は2014年9月に、クリミアの首都シンフェロポリ、軍都セヴァストポリ、ウクライナの首都キエフ、さらにその後モスクワに滞在し、ロシア人、ウクライナ人、クリミア・タタール人に対して、この事件の意味をどう考えるかについて質問を重ねる。エスぺランチストも何人か登場する。立場や世界観が違えば、事件の評価や歴史の解釈も違ってくる。編入を歓迎する人、あくまで反対してウクライナに亡命した人、なおクリミアに留まって生きる人もいる。こうして、大部分は無名の市民たちの証言の積み重ねを通じて、事件の意味が多角的に照射されることになる。

編入によって、それまで平和に共存していた隣人がいきなり不倶戴天の敵となる。旧ユーゴスラヴィアの解体を思い出させる現象が繰り返される。あるクリミアのロシア人は、ウクライナ新政権はファシストだ、ロシアの特殊部隊(「緑の人」verdulojと呼ばれている)が来なければ、彼らはクリミアに侵入してロシア人を虐殺していただろうと主張する。また、クリミア・タタール人も同様にテロリストだとする。他方で、そのクリミア・タタール人から見れば、事件は全く別の様相を帯びてくる。彼らは1944年にナチスに協力したとしてスターリンにより中央アジアに強制移住させられ、ソ連解体後、帰還を許されたが、その後も差別に苦しんできた。クリミアのロシアへの編入に伴い差別が再燃している。新たな支配者であるロシアは、ソ連による全体主義的支配体制や弾圧を連想させる。だから彼らにとっては民主主義的、ヨーロッパ的方向こそが目指すべき道である。

ことはそうした大状況だけにとどまらない。ある年金生活者は海岸に住むのが夢で、クリミアに別荘を建てたが、編入によってそこはロシア領になってしまった。住みなれた東ウクライナのドネツク州では戦闘が続き、戻るに戻れない。家族からも引き離されてしまった。これが人生か、どうすればいいのか、と彼は嘆く。クリミア問題という大事件の背後に、そうした無数の人々の生活がある。

最終章には、ロシアのリベラルな野党の市民プラットフォームの代表を務めたイリーナ・プロホロヴァへのインタビューが掲載されている。彼女によれば、ソ連の解体は抑圧から解放され、より良い自由な国を作るチャンスだった。ところが、プーチンが権力を掌握して、この方向を変えてしまった。プーチンはソ連の解体を「20世紀における地政学上の大惨事」だと主張して国民のトラウマに訴えかけ、「帝国の復活」を目論んでいるというのである。クリミア併合から1年余が経過し、急速な軍事化の一方で、当時の熱狂は醒め、経済制裁、原油価格の低下、クリミア経営のための膨大な経費負担などで不況が進行しており、著者は、「冷蔵庫とテレビの間の最終戦争」、すなわち市民生活と愛国的プロパガンダとの最終戦争が始まったというロシア人の皮肉な指摘で本書を終えている。

権力者が国民の大国意識に訴えかけ、同時に、自国は敵対的な国家に囲まれていると危機意識を煽り、近隣諸国との信頼関係を破壊し、異論の持ち主を「外国のエージェント」だとして排除する政治手法。そうした現象はクリミアやロシアだけのことではない。まさに現在の日本の政治状況そのものではないか。 本書は、エスペラント版のほか、フィンランド語、スエーデン語版が同時に刊行された。現在進行中の事件をめぐる分析を、雑誌記事やネットではなく、まとまった書籍のかたちで、それも明晰なエスペラントで読めるのは喜ばしい。情報の洪水のなかで、エスペラントによる時事的な情報の発信の意味を改めて考えさせてくれる本である。

(La Movado 2015年9月号掲載。なお、転載にあたって一部表現を改めた。)

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