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読書日記(15)Seneko “Mallongeco de la vivo”(Fonto,2014)

本書は、古代ローマ時代の哲学者にして政治家であったセネカ(B.C.4または1―A.D.65)が残した対話篇のうちの1篇、名高い「生の短さについて」のエスペラント訳であり、ラテン語の原文が併載されている。本書は古くから、よく生きるための手がかりを与えてくれる古典として愛読されてきた。私の知人にも本書が30年来の愛読書だという人がいるが、私も、長年人生の糧として折々にその邦訳(茂手木元蔵訳、のち大西英文訳。いずれも岩波文庫)に親しんできた。昨年、イタリアに滞在して大学でイタリア語を学んでいたときにも、「あなたの人生を変えた本を挙げよ」と講義で先生から問いかけられて、本書を挙げたことがある。このたび、ハンディなかたちでエスペラント訳が刊行され、エスペラントを通してこの賢者の思索に近づけるようになったので、少しばかり本書について紹介してみたい。

政界で活躍していたセネカは、西暦41年、一人息子に先立たれ、さらにその直後、宮廷内の陰謀に巻き込まれてコルシカ島へ流刑になり、そこで8年余にわたり失意と孤独の日々を過ごした。幸いにしてローマに召還されたあとは、皇帝ネロの教育係となるが、次第にネロにうとんじられるようになり、政治から退いて隠棲するものの、やがてネロから死を命じられ、壮絶な死を遂げた。本篇は流刑から解放され、宮廷政治家として活躍していた時期に書かれたものらしい。とはいえ、本書を読んでいると、流刑地での苦難の日々や、死者たちの記憶が彼の思索に大きな影を落としているように感じられる。

セネカは、狂帝カリグラ、暴君ネロなど悪辣な皇帝が相次ぎ、死がごく日常的な事実であるような時代を生きた。しかし、21世紀の今も依然として世界各地で自然災害や戦争や暴政による大量死は絶えず、また権力者が愚昧で、横暴を極めていることも、われわれが日々目のあたりにしているとおりである。そしてそれ以上に、社会のあり方がいかに変わろうとも、人間が人生でさまざまな苦(仏教のことばでいえば生老病死、四苦八苦)に直面せねばならず、さらにその先には死が待ち構えているという事実は、それこそ古代ローマであろうと現代であろうと全く変わるところはない。それだからこそ、本書は、われわれとは無縁の遠い過去の遺物ではなく、今もなお切実にわれわれに訴えかけるのであろう。

セネカは本書で、われわれは生の短さという冷厳な事実に直面することを避け、地位や財産や権力を求めていたずらに生を浪費していると説く。有力者の庇護を求めて東奔西走したり、望みどおり高位の公職に就いたもののそれに忙殺されたり、瑣末な知識の追求に明け暮れたりして生を浪費する者たちのありさまを、彼はきわめて具体的かつ辛辣に描き出していて、読んでいると、古代ローマ人があたかもわれわれの隣人のように感じられる。

他方で、彼が理想とする「閑暇の人」は、そうした世俗の営みに時間を浪費することなく、いかに生きるべきかを古今の哲人たちと対話しつつ観想の生活を送るのだという。人生は短い、しかし、真に自分のために活用すれば長いとして、セネカは、vivu do tuj ! (ただちに生きよ)(9:1)と対話相手のパウリヌス、つまりは読者に向かって呼びかけるのである。

私はあいにくラテン語は全く知らない。しかし、全編を通じた、簡潔で、切迫した、たたみかけるような筆致は、エスペラントを読んでいても(あるいはエスペラントだからこそ一層、と言うべきか)感じられる。例えば、上記の呼びかけの直前、死が迫りつつあることを説く一節はこんな具合である(カッコ内の邦訳は大西英文訳による。以下同じ)。Okupata vi estas, la vivo rapidas; sed dume alvenas la morto, kaj al ĝi – ĉu vi volas-nevolas-vi devas cedi la lokon(君は何かに忙殺され、生は急ぎ足。やがてそのうち死が訪れ、否応なく、その死とともに君は(永久に)安らわねばならないのだ)(8:5)。これではあまりに身もフタもなさすぎると感じられるかもしれない。では、次のような文章はどうか。Vivi oni devas tutvive lerni, kaj-eble ankoraŭ pli mirige-tutvive oni devas lerni morti(生きる術は生涯をかけて学び取らねばならないものであり、また、こう言えばさらに怪訝に思うかもしれないが、死ぬ術は生涯をかけて学び取らねばならないものなのである)(7:3)。

これらの引用からもうかがえるとおり、セネカは常に死を意識し、死に直面する存在として人間をとらえていた。そうした思想自体はむろん、セネカの独創ではない。しかし、エスペラント訳でこれらの文章を読んでいると、私は彼の「修辞のちから」(大西英文)を切実に感じる。そうして、自分は彼の説くような意味で本当に生きていると言えるのか、こうしてはいられない、という思いに駆り立てられるのである。

最後に。上記の大西訳は、もと『セネカ哲学全集』第1巻(岩波書店、2005年)に収録されたが、のち岩波文庫『生の短さについて 他二篇』(2010年)に収められた。また、セネカの他の主要著作のエスペラント訳では、『倫理書簡集』と「ヘルヴィアに寄せる慰めの書」、「アポコロキュントーシス」が、本書の訳者のGerrit Bervelingさんの手になる浩瀚なラテン文学選集Antologio Latina vol3(Fonto、2009)に抄録されている。

(La Movado 2015年6月号掲載。なお、転載にあたって一部表現を改めた。)
(追記)
1 その後、本書の新しい邦訳が刊行された。中澤務訳『人生の短さについて 他2篇』(光文社古典新訳文庫、2017年)である。
2 政治家としてのセネカについては、ジェイムズ・ロム『セネカ 哲学する政治家』(白水社、2016年)が息をつかせぬほど面白い。サブタイトルに「ネロ帝宮廷の日々」とあるように、宮廷政治家であり億万長者であったセネカの実像に迫った著作。著者は「貧困を賛美させたら、セネカという億万長者の右に出る者はいない」というある歴史家の痛烈な言葉を引用している。また、セネカは、母アグリッピナを暗殺しようとするネロの謀議の席にいた。彼女はセネカを流刑地から呼び戻してくれた恩人であったにもかかわらずである。「セネカの書いたあらゆる言葉も、セネカが公表したあらゆる論考も、この瞬間、この部屋に、セネカがいたという事実を念頭に読まれなければならない」と著者は記している。

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