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読書日記(14)「高杉一郎・小川五郎 追想」

この1月に、『高杉一郎・小川五郎 追想』と題する追悼文集が刊行されました。故人の娘さん二人が発行人となっている私家版ですが、関西エスペラント連盟で入手できるとの情報がありましたので、私も注文して購入しました(1,200円、279ページ)。

本書には、加藤周一、不破哲三、澤地久枝、田中克彦といった有名人を始めとして、児童文学関係、勤め先の大学(高杉は静岡大学、和光大学の教授を長く務めました)の同僚教員、教え子、編集者、隣人、親族など、多彩な執筆者が寄稿しています。エスペランチストも、峰芳隆、栗田公明、望月正弘の各氏など、何人かが寄稿しています。また、早稲田みかさんが、父の故・早稲田裕氏と高杉との関わりを語っています。

執筆者のなかには、雑誌『エスペラントの世界』編集長で、当時、津に在住だった嶋田恭子さんの名前も見え、なつかしい思いに誘われます。嶋田さんは、1984年10月に三重県立美術館で中村彝展が開催されたのを機に、三重エスペラント会が高杉を講師として「作品『エロシェンコ氏の像』をめぐって」と題する講演会を開催したことに言及しています(p164)。私はその講演を聴講し、終了後、津駅前のレストランで開かれた高杉夫妻を囲む会食にも参加しました。もう四半世紀も前のことです。

高杉は3人の娘と孫に囲まれ、99歳という長寿を全うしました。晩年は、さすがに執筆することはなくなったとはいえ、なお知的好奇心は衰えず、旺盛に読書を続けました。その姿を何人もの知人が回想しています。99歳でホブズボーム『わが20世紀・面白い時代』を読んで興じたというのは驚異的です(p97)。97歳のときには、検査入院を終えて退院したその日に映画館へ直行し(無論、さすがにひとりで行ったのではなく、娘婿に連れていってもらったようですが)、『ヒトラー~最後の12日間』を見て面白がったなどというエピソード(p238)も出てきます。スターリン主義やナチズムなど、現代史に寄せる関心は最期まで衰えなかったようです。

ところで、私は、高杉の著書は何冊か読んではいるのですが、正直のところ、愛読者だとはいえません。むしろ、読むたびに違和感を禁じ得ない場合が多々あります。高杉は、戦前は改造社に勤務して雑誌『文芸』を編集していた俊敏なジャーナリストであり、戦後はシベリアで俘虜となってスターリン体制下のソ連の実態に直面し、また、帰国後、『極光のかげに』の刊行により、国内のスターリン賛美者たちからさんざん非難されました。そのような体験をし、何度も辛酸を舐めているにもかかわらず、歴史そのものの、あるいはソ連の政治・経済体制の分析がどうにも不足しているのではないか、また、総じてあまりに平明にすぎ、「文学的」にすぎるのではないか、等々。

加えて、私は、個人的には 高杉が翻訳に心血を注いだエロシェンコにも、また、フィリパ・ピアスを始めとする児童文学にも積極的な関心を持てません。ピアスの『トムは真夜中の庭で』も、読んではみたのですが、世評極めて高い名作であるはずなのに、一向に感心しませんでした。もっとも、高杉一郎訳のエロシェンコは、伊東幹治という、戦争帰りのすれからしの文学中年を魅了して、彼がエスペラントに関わるきっかけを作ったのですから、それはそれで大いなる魅力があるのだろうとは思うのですが、どうもいまいち食指が伸びません。

本書でも、高杉に対する賛辞が並ぶなかで、岩波書店の編集者であった小野民樹が、高杉のスメドレー伝に対して、「これはエロシェンコ伝にも通ずることなのだが、ちょっときれいごとにすぎる、人間に陰翳がないと思った」と評し、「書き手が素直すぎるのだと思った」と、やや他の執筆者とは異なるトーンで書いています(p169)が、私の印象もそれに近いですね。

もっとも、その高杉も、『極光のかげに』が刊行されたときに、宮本顕治が「あの本は偉大な政治家スターリンを汚すものだ。今度だけは見のがしてやるが」と高杉に向かって傲然と言い放ったことは、しっかりと書いています。やがて宮本の後妻になったのは高杉夫人の姉にあたる女性だそうですが、高杉は、宮本から和解のため何度か会食の誘いがあっても、「ぼくは行きませんよ」と「きつい声で」言った(p177~178)そうですから、両者の長年にわたる角逐には相当深刻なものがあったのでしょう。また、埴谷雄高がやはり同書を偽書ではないかと疑っていることについても、反論を加えています。そうしたことからも伺えるとおり、高杉はナイーブな人ではもちろんなくて、むしろ「賢者は政治をしない」という意味で、きわめて賢明な、よくものの見えていた人物であったのであろう、という印象は持つのですが。

どうも中途半端な、煮え切らない文章になりましたが、本書には、妻や娘、孫などと一緒にくつろぐ高杉の写真が多数掲載され、高杉の人物や彼が築いた家庭の様子が髣髴とします。高杉を直接に知る方にはとりわけ感慨深い本でしょう。

なお、高杉の『わたしのスターリン体験』他については、財団法人日本エスペラント学会機関誌『エスペラント』の2008年12月号に拙文が掲載されておりますので、よろしければごらんください。また同じく高杉著『征きて還りし兵の記憶』については、この「読書日記」の(7)で、また、シベリア抑留者とエスペラントとの関わりについては、同じく(4)で、それぞれ論じていますので、あわせてご覧いただければ幸いです。


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