本と批評

読書日記 書評いろいろ 出版文化

読書日記(8)「100パーセント・エスペランティスト」の回想

20世紀前半にソ連で活躍したエスペランティストの回想がある。題名はそのものずばり、『100パーセント・エスペランティストの回想』という。著者のアレクサンドル・サハロフは、1865年生まれで、1942年から43年にかけての冬に亡くなった。だから、日露戦争、第一次世界大戦、2月革命、10月革命、内戦、スターリン主義体制の確立、そしてまたもや戦争、すなわち第二次世界大戦という苦難の時代を生きたのである。

著者はカザン大学で数学を専攻した。教職につくことを希望していたが、在学中にストライキに関わったために果たせず、小さな町で公務員になった。やはり同時期にこの大学に在学していて学生運動に関わって放校になったのが、のちのレーニン(1870〜1924)である。 著者は、1903年にたまたま友人からエスペラントの手紙を受け取ったのがきっかけになって、エスペランティストになる。1906年にジュネーブで開かれた第2回世界大会に出席して、感激のあまり、全人生をエスペラントにささげようという決心を固める。やがて、職を辞して、「100パーセント・エスペランティスト」、すなわち、職業的なエスペランティストになる。1907年、すでに42歳になってからのことであった。生涯独身であった。

モスクワに出た著者は、エスペラント専門の書店「エスペラント」を開設する。やがて、モスクワ・エスペラント協会を結成する。さらに、雑誌La Ondo de Esperantoを刊行する。そのいずれにおいても成功をおさめる。手堅い実務能力があったのであろう。本書を一読して、まず感じるのは、理想主義と現実主義との結合とでもいうべきものである。エスペラントのために人生をささげようという熱意と同時に、お金の話がしょっちゅう出てくる。発行部数がいくらとか、家賃がいくらとか。1万部なんてあるのには驚く。全体に具体的、即物的な記述である。運動にまつわる陰湿なウラミ、ツラミが出てこないのはよろしい。

彼が経営する書店は、一時期、運動の中心になった。書店は情報が集まる場所だったのだろう(p75)。カニヤ書店もこうだったのであろうか。

革命後は、過渡期の混乱のなかで、書店も閉鎖し、雑誌も廃刊せざるをえなくなる。そして、著者は、1920年に学校の教師となり、エスペラントも教えたものの、「100パーセント・エスペランティスト」ではなくなる。代わって、運動のヘゲモニーを握ったのは、ドレーゼンの率いるSEUであった。著者自身は中立的立場を守った。SEUとは次第に深い関わりは持たなくなっていったようである。

 

本書を読むと、著者は、同時代の状況について、驚くべく、とらわれない率直なものの見方をしている。とりわけ革命後の大混乱が具体的な描写により、生き生きと描かれている。

スターリン主義の時代にもかかわらず、迎合していない。発表を意図していなかった原稿ではあるが、もし発見されていたらどうなっていたであろうか。ドレーゼンに対しては否定的である。SEUについても、一定の功績は認めつつも、ソ連のエスペラント運動において致命的な役割を果たしたとしている(p188)。ドレーゼンたちとNova Epokoに拠ったデミデュクらとの間での運動内部のヘゲモニー争いについて批判的な記述がある。著者は、ドレーゼン始めエスペランティストたちが次々に粛清されていくのを見ていた。ただし、その最後について、どこまで知っていたのであろうか。文面からは定かではない。

 

レーニンもスターリンもブハーリンも全く出てこない。著者の政治的関心はどうだったのだろうか。抑制したのであろうか。表立って言及していないことが却って、批判の存在を示しているのではないだろうか。彼自身は文字どおりブーローニュ宣言の精神に生きた人であったため、政治的な傾向に深入りすることはなかった。そのおかげで、危機から救われたのだ、とみずから述懐している(p153)。政治的関心がなかったのではない証拠に、2月革命に際しては、それにより得られた自由に感激している。

エロシェンコの名前が1回だけ出てくる。クルプスカヤに手紙を書いたという記述もある。(p170)。ランティと親交のあったロシアのエスペランティストが本書にも出てくる。デミデュクとか、ネクラーソフとか、フーテルファスとかである。

 

著者はSEUのメンバーらが粛清されてから2、3年後に、今や運動を再興するのに好適な時期だと書いている(p191)。しかし、戦後もスターリン体制は続き、運動はなお長らく再生しなかった。その点をとらえて、著者のこの認識が楽観的にすぎたと批判するのはやさしい。同時代を生きる人間の認識の制約も指摘されるべきかもしれない。しかし、半世紀を経た現在、運動は確かに再生しているのであるから、つまりは著者が正しかったのかもしれない。

(センター通信1996年12月号掲載)


←前を読む | →次を読む | ↑目次へ