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読書日記(9)バギーの小説の同時代史的背景

ロシア革命とシベリア出兵

1 はじめに

これから私がお話ししたいと思いますのは、バギーの小説、特にシベリアを舞台にした小説の歴史的背景です。バギーにはシベリアで戦争捕虜として暮らした体験がありますが、その体験をもとに、1925年に“Viktimoj”、1933年には“Sur Sanga Tero”そして1937年に“La Verda Koro”をそれぞれ刊行しております 。

これらの小説は、ロシア革命、内戦、シベリア出兵といった、まさに激動の時代を背景としておりまして、そうした背景を知った上で読めば一層興趣が増すと思います。時間が限られておりますので、かいつまんだ説明しかできませんが、今後これらの小説を読まれる上で多少でも参考になればありがたいと思います。

2 ロシア革命とシベリア出兵

1917年3月にロシア革命が勃発し、ツアーリの支配体制が崩壊しますが、同年11月には、さらに10月革命によりボリシェヴィキが政権を握ります。シベリアでもあちこちの都市にソビエト政権ができますが、連合国は革命によって成立したソビエト政権を打倒するため、協同して軍事干渉にかかります。その一環となったのがシベリア出兵です。まずその経過を簡単にお話ししたいと思います。

このシベリア出兵の直接のきっかけは、1918年5月のチェコスロバキア軍団の反乱です。チェコスロバキア軍は、第1次大戦中、オーストリアの支配下にあってロシア軍と戦ったのですが、大戦中に、多くはロシアに投降し、チェコスロバキア軍団として対ドイツ戦に使用されておりました。その数は20万ないし25万人にものぼったといわれております。

このチェコ軍団は、革命後も、独立を達成するためドイツと戦おうとし、また連合軍も対ドイツ戦に利用しようとしておりました。そこで軍団は、ヨーロッパ戦線へ移動するため、シベリア鉄道経由で東へ進み、ウラジオストクを目指していました。そこから連合軍の船舶で海路フランスへ行こうとしたのです。

ところが、ソ連側は、軍団が連合国の干渉政策に利用されることを恐れ、その移動中に武装解除を命じました。緊張が高まるなかで、たまたまウラルのチェリヤビンスク駅でドイツ・オーストリアの捕虜との衝突が起こります。それを機に、軍団のなかに台頭していた対ソ強硬論者が権力を掌握し、軍団が中心となり、各地の反ボリシェヴィキ勢力と結んで地方ソビエト政権に対する反乱を起こします。この結果、シベリア鉄道沿線に、次々と反革命政権ができました。

さらに、8月になりますと、日本とアメリカは、このチェコ軍団の救出を名目に、シベリア、極東出兵を宣言しました。これが、シベリア出兵の始まりです。イギリス、フランスも派兵しました。連合国は、現地に成立した反革命勢力と協力して、革命政権への干渉に乗り出しました。シベリアでも、1918年11月に、帝政ロシアの提督であったコルチャークが連合国に支持されてクーデターを起こし、軍事独裁政権を樹立しました。また、日本軍は、コサック出身の軍人セミョーノフに武器と資金を提供し、彼はザバイカル州に反革命地方政権を作りました。

しかし、1919年になると、次第に革命勢力が巻き返しに転じ、1920年1月にはコルチャーク軍も敗れ、連合国も封鎖解除を宣言します。しかし、日本のみは居残り、結局、日本軍がウラジオストクから撤退したのは、1922年の10月でした。なお、日本軍は北樺太(サハリン)も占領しており、そこから撤兵したのはさらに3年後の1925年ですので、日本のシベリア出兵は、前後8年間にわたることになります。この間、戦費約10億円を費し、死者は3、500名を数え、ソ連や各国からも不信を買い、そのあげくなんら得るところなく、無残な失敗に終わったわけです。

3 バギーの小説について

第一次世界大戦とそれに引き続くロシア革命、対ソ干渉の経緯は概略、以上のとおりです。バギーの小説は以上のような歴史的状況を背景にしております。ソ連は、ロシア革命によって成立後、70数年を経て、1991年、ついに崩壊しました。私たちは、ソ連という帝国の、そしてソ連と東欧諸国を含む社会主義圏のおわりに立ち会ったわけですが、それもまたすでに過去の出来事となった現時点で、革命の生成期の混乱をえがいたこれらの小説を読み返してみると、また格別の感慨がわいてきます。

最初に述べましたように、バギー自身が1915年から1920年まで、年齢にして23才から29才までのあいだ、捕虜となってシベリア各地で抑留されており、その体験が小説に反映されております。彼の母国、オーストリア・ハンガリー帝国は敗戦によって1919年に崩壊します。一方ロシアに抑留されたオーストリア・ハンガリー軍将兵の捕虜は、174万人にものぼったとされております。バギーの小説は、従って、ハンガリーという敗戦国の、それも戦争捕虜という立場からえがかれているわけで、フィクションではありますが、いわば底辺、周縁から、ロシア革命後の混乱と新しい秩序の形成がえがかれているわけです。

さきに述べたように、当時のロシアにおける政治、社会情勢は混沌としており、革命側が政権を樹立したかと思うと反革命がそれを奪取するという繰り返しが続いていました。“Viktimoj”では、いったん成立した革命政権が崩壊し、かっての支配者が戻ってくるさまが恐怖をもってえがかれています。もちろん、戻ってくれば革命側に対する大弾圧が始まるのです。また、“Sur Sanga Tero”では、とりわけ、反革命のコサックのカルムイコフ軍の退廃が如実に描き出されています。捕虜たちをきびしい冬の寒さのなかで裸にしたり、兵士、それも自軍の兵士を虐殺したり、といったエピソードが次から次へと出てまいります。

そして、そうした白軍の退廃、残虐と比べて、革命側への共感が感じられます。捕虜は最も弱い立場におかれ、それだけに、無事故郷へ戻りたいという思いや、その前提として、平和を希求する気持ちには切実なものがあったと思われます。2月革命によって捕虜の置かれていた状態は変わり、監視体制はゆるみ、市街地へ出たり、集会に出ることができるようになっていました。それでも、混沌とした政治状況と経済的な混乱のただなかで、きわめて不安定な立場に置かれていたことには変わりありません。

このあたり、時代を下って、第二次大戦後のシベリアにおける抑留体験をつづった高杉一郎さんの『極光のかげに』などと比較してみるのも興味深いと思います。ところで、日本は、シベリア出兵というかたちで、ソ連と深い関わり、それも誕生したばかりのソ連を倒そうとしたという否定的な関わりを持っていたことはお話ししたとおりですが、バギーの小説には日本のことは直接にはほとんど出てまいりません。

ただ、わずかに“Verda Koro”に日本人が登場してまいります。それは大場嘉藤というエスペランティストの軍人であり、『日本エスペラント運動人名小事典』によれば、ウラジオストクに寄港のさい、同地の捕虜収容所を訪ね、収容所内のオーストリア人、チェコ人、ハンガリー人などのエスペランティスト・グループと交流したとされております。まさにそういうエピソードがこの本で紹介されております。日本は侵略者でしたが、こういうエピソードもあったのです。なお、シベリア出兵に日本人として従軍した体験を持つ黒島伝治という作家がおります。このひとに、シベリア従軍体験に根差した優れた反戦文学とされる『渦巻ける烏の群れ』という作品があります。これは宮本正男さんのエスペラント訳が、“ Siberio en Nego”という題名でロムニブーソ社から刊行されておりますので、ご紹介しておきます。

4 ハンガリーの状況について

最後に、これらの小説では直接えがかれてはいませんが、主人公たちが帰国した後のハンガリーの状況にも少し触れておきたいと思います。“Sur Sanga Tero”の最後で、バギーは、1920年にブダペストに着いた主人公のバーディに「新しいシベリア」が待っている、と言わせています。

主人公がシベリアにいた1918年に、ハンガリーでも、敗戦の混乱のなかで、ロシア革命の影響で革命が起きますが、わずか133日で崩壊しています。それに引き続いて、ホルティ政権による弾圧、白色テロが加えられます。そうした政治状況と同時に、敗戦の混乱期における引揚者の生活は楽ではなかったでしょう。そういう不安を予感させる幕切れです。

バギーの小説は、一般に理想主義的、観念的とされることが多いようですが、そしてそういう側面ももちろんありますが、同時に、以上のようなきわめてリアルな政治状況、苛酷な体験を踏まえ、それとの対決のうちにえがかれております。

(注)
  1. 本稿は、1992年1月10日発行の「センター通信」第154号に掲載した文章を、1999年12月時点で一部改稿したものです。この文章は、「センター通信」掲載の前年の12月8日に行われたザメンホフ祭での報告の原稿をもとにしています。当日は時間がなく、大幅に省略せざるを得ませんでした。
  2. 参考にした主な文献は、以下のとおりです。   
    原暉之『シベリア出兵』 筑摩書房、1989年
      『ロシア・ソ連を知る事典』 平凡社、1989年
      Marjorie Boulton “Poeto Fajrakora” Artur E.Iltis,1983

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