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読書日記(12)ハンセン病とエスペラント運動について

去る5月11日、熊本地裁で、ハンセン病患者の強制隔離政策の違法性を認める判決が下された。これに対して、国は5月23日、控訴を断念した。判決をめぐる一連の報道を追っていて、いろいろ感慨や意見がわくが、ここでは書かない。

ここで書きたいのは、日本のハンセン病治療の権威とされた光田健輔(1876〜1964)とエスペラントとの関わりについてである。もっとも、私が知ったのは、きわめて断片的な情報に限られているので、それらを紹介するにとどめ、性急な判断は差し控えたい。

さて、光田は、1931年から1957年まで国立長島愛生園の所長を務めた。救癩事業に生涯をささげ、「救癩の父」と言われ、1951年には文化勲章を受章した。彼は、患者を愛し、いわば温情主義的に患者に接する一方で、患者の一般社会からの厳重な隔離を主張し、患者が結婚する場合は断種手術をさせ、逃亡する患者には逃亡罪を適用しろと主張したことで知られる。

らい菌が感染力がきわめて弱く、患者を強制隔離する必要がないことは、戦前から指摘されていた。加えて、1940年代にアメリカで画期的な治療薬「プロミン」が開発され、ハンセン病はもはや不治の病ではなくなっていた。しかし、光田は戦後になってもなお隔離の必要性を主張した。強制隔離制度を中軸とするらい予防法が1996年まで廃止されなかった点にも、彼の影響が及んでいたと言われる。

ところで、光田の名前は、エスペラント運動史に登場する。田中貞美、峰芳隆、宮本正男共編『日本エスペラント運動人名小事典』(日本エスペラント図書刊行会、1984年)によれば、光田には、ハンセン病患者の断種手術に関するエスペラントの論文がある。また、「救癩事業に一生をささげ、かたわら患者にEを教えた。」との記述がある。

患者を隔離する一方で、エスペラントを学ぶことをすすめる。国家の繁栄のため、強壮な日本人を作るため、「癩病」を撲滅せねばならないという国家主義的、優生学的な発想の持ち主が、同時に、国家の枠を超えた交流を目指すはずのエスペラント運動の支持者でもあったのである。無論そうした発想は、光田ひとりに限ったことではない。

ところで、ハンセン病療養所でのエスペラント学習の実態はどのようなものだったのか。サナトリウム(結核療養所)におけるエスペラント運動は耳にしたことがある。

“Verda Sanatorio”という機関誌も出ていた。しかし、ハンセン病の療養所での運動については、寡聞にして詳細を聞いたことがない。

この点について、初芝武美『日本エスペラント運動史』(日本エスペラント学会、1998年)を見ると、療養者エスペラント運動の項目中に、次のような記述がある。

「療養所でのエスペラント普及活動はそれまでも個別的に行われていた。岡山エスクラピーダ・グルーポが、1948年から行った長島愛生園や光明園での職員、患者へのエスペラント講習会は、光田健輔園長の支援もあり、『エスペラントの単語を覚えることにより患者の方々が少しでも人生に希望を増すことができれば幸いであり、外国の療養所と通信ができればいろいろの点で好都合である』との考えにも沿っていた」(p167)

eskulapida は、「医学者・医師たちの」の意であり、エスペランチストの医師たちのグループだったのであろう。それにしても、ここでの初芝の記述では、結核もハンセン病も区別されていない。長島愛生園も光明園もハンセン病療養所であるが、そのことはどこにも言及されていない。なぜこういう記述になっているのか、奇異の感がなくもない。

私が光田健輔、あるいはハンセン病療養所とエスペラント運動との関わりについて知り得た情報はこの程度である。どなたか、もっと詳細な事実をご存じなら、ご教示願えれば幸いである。


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